ローマ  Roma_3

31. Chiesa di Santa Maria dell’Anima サンタマリア・デラニマ聖堂

Wikimedia Commonsより
Wikimedia Commonsより

 

 ナヴォナ広場の北端にあるネプチューンの噴水から西に、ロレネージ (Lorenesi) 通りを進むと左側に見えてきます。なお、その先にはサンタマリア・デラパーチェ聖堂が並んでいます。

 

 元はローマに来る特にドイツ人の巡礼者を受け入れる宿でしたが、16世紀に聖堂となっています。

 

 聖堂正面はサンガーロ (Giuliano Sangallo) 1511年作で、三か所の扉口とその上層部にアーチ型の窓が載り、中央最上部には丸窓が在ります。扉口の上には聖母が霊を表象する2体の像に脇侍されています。右手の鐘楼も16世紀の建設です。

 

 

 現在ではドイツ語で説教が行われる聖堂としてドイツ人の集う聖堂となっています。

 

 

 聖堂内は三廊式ですが、側廊の外側に礼拝堂が並んでおり、身廊と側廊の天井の高さが同じと言う、ローマ市内では珍しくゴティック様式の聖堂です。高い天井を含めて華やかな内装は19世紀になってから改修されたものです。

 

 

 高い天井を含めて華やかな内装は19世紀になってから改修されたものです。

 

 

 多くの礼拝堂を飾る絵画や彫刻は作者の名前が判明しており、制作年代も判る作品もありますが、4番目のピエタ像がミケランジェロの模倣品であるように、一流の芸術家の作品は少ないようです。16世紀から17世紀の作品が多いようです。

 

32. Basilica di Santa Maria in Aracoeli サンタマリア・インアラチェリ聖堂

 

 ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂の右手に廻ると、長い階段の上に見えてきます。正面の扉口は124段の階段の上にありますが、神殿の装飾部材を使用して建設されています。なお、カンピドーリオ広場側からも入ることができます。現代ではサンタマリア・インアラコエリ聖堂と呼ばれることが多いようです。

 

 ローマ帝政時代の中心地とされたカンピドーリオの丘には神殿が25あったと言われていますが、その中でも最高位のジュノー女神を祀った神殿の跡に建設されました。

 

 ローマ帝政時代の中心地とされたカンピドーリオの丘には神殿が25あったと言われていますが、その中でも最高位のジュノー女神を祀った神殿の跡に建設されました。

 

 

 聖堂の外観は粗石のままで華やかさは全くありませんが、内部は一転して、シャンデリアが多くぶら下がり、フレスコ画、絵画が多く飾られた彩色に富んだ煌びやかな聖堂です。

 

 22本の円柱は多くの神殿から移設されたものです。柱頭飾りもイオニア式コリント式と様々です。中には皇帝の住居から持ってきた柱も入っています。

 

 

 三廊式ですが、左右に礼拝堂が並ぶ五廊式の大きな聖堂です。中央祭壇には聖母の絵が飾られ、アプシスにはオルガンがあります。

 

 

 この聖堂は多くの重要事項を祝う際に使われて来ました。天井は1571年にトルコとのレパント沖海戦 (Battle of Lepant) に勝利したことを記念したものです。

 

 

 右側の礼拝堂にはピントゥリッキオ (Pinturicchio) 1480年作「聖ベルナルドの生涯」(Vita di San Bernardino) が見られます。

 

 なお、奇跡を起こしたことで有名な「聖幼な子」(Bambinello) はゲッセマネ (Gethsemane) のオリーブの木で造られた像でしたが、現在の像は模造です。

 

33. Basilica di Santa Maria in Cosmedin サンタマリア・インコスメディン聖堂

 地下鉄B線チルコ・マッシモ (Circo Massimo) 駅から西にテヴェレ川に向かうと、ローマ帝政時代に戦車競技が行われた広大な円形競技場があり、郷愁を感じながら散策するのに適した広場となっています。この広場を過ぎ、テヴェレ川に出る手前に聖堂はあります。

 

 またはヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念館の右手のマルチェロ (Marcello) 通りを進むと、トラステヴェレ (Trastevere) 地区に向かうパラティーノ (Palatino) 橋の手前に、矩形のフォルトゥーナ神殿 (Tempio della Fortuna) が右手に見えてきます。

 

その先に真実の口広場 (Piazza Bocca della Verità) があり、更に右手に見える円形のヴェスタ神殿 (Tempio di Vesta) を過ぎると聖堂の正面に出ます。

 

 

 聖堂は6世紀に建立され、ゲラシウス (Gelasius) 2世教皇とカリクタス (Calixtus) 2世法王により、12世紀初めにロマネスク様式で再建されています。

 

 赤い煉瓦造りの聖堂の右手には7層に重なる背の高い鐘楼が立ち、ロマネスク様式の鐘楼としてローマでも見ごたえのある塔です。

 

 聖堂の扉口の前の柱廊には張り出している扉口があります。

 

真実の口 に並ぶ観光客
真実の口 に並ぶ観光客

 

 柱廊の左側奥に真実の口 (Bocca della Verità) が置かれています。

 

 映画「ローマの休日」で一躍有名になった聖堂で、真実の口に手を入れた写真を撮るために、大勢の観光客が訪れ、順番を待って長蛇の列ができています。

真実の口への入口は聖堂の扉口とは異なっていますので、聖堂内に入るのには支障はありません。

 

 

 聖堂内は三廊式です。

 

 

 中央祭壇前に一段高くなった内陣が身廊の半ばまで広がっています。この下に地下聖堂があります。聖ピエトロ大聖堂の聖ピエトロの墓を模して作成されています。

 

 

 身廊にも側廊にも飾りはありませんが、凱旋門アーチ部分にはフレスコ画が一部残っているのが見えます。

 

 アプシスには13世紀デオダート作の聖母子が玉座に坐し聖人が脇侍したフレスコ画があり、両脇には「受胎告知」「降誕」などのフレスコ画がありますが、中央祭壇に天蓋が設置されているために見えにくくなっています。

 

 

 中央祭壇の左手の祭壇にはマンドルラの中に教会に坐す聖母子のフレスコ画があり、左右には「降誕」と「聖母被昇天」のフレスコ画が見えます。天の子羊のフレスコ画の他にもフレスコ画が残っています。また、床には大理石で模様が施されています。

 

 

 マンドルラとは、キリストや聖母マリアの全身を囲むアーモンド型や楕円形の光の背景のことで、仏像にも見られる光背と源流は同じと考えられています。

 

 マンドルラに関しては、國學院大学教授 小池寿子(こいけひさこ) 氏の論文もご覧ください。

「身体を巡る断章 その14 子宮の夢想」

https://www.nttdata-getronics.co.jp/

csr/spazio/spazio67/koike/main.htm

 

34. Basilica di Santa Maria in Domnica サンタマリア・インドムニカ聖堂

 

 コロッセオ (Colosseo) の入口の裏手にあるクラウディア (Claudia) 通りを東南に向かい、広い交差点のラルゴ・サニタミリターレ (Largo Sanita Militare) を過ぎると右手に見えてきます。

 

 

 聖堂の前には、16世紀に古代ローマの船を模して大理石で造られた噴水 (Fontana della Navicella) があります。

 

 7世紀に建立された聖堂で、9世紀に改装され、後にルネサンス様式で改装され、16世紀初めにレオン (Leone) 10世法王の命により、アンドレア・サンソヴィノ (Andrea Sansovino) が更に改装して聖堂前に柱廊が付けられました。

 

 

 聖堂内は三廊式で、アプシス上の円蓋には大きな聖母子のモザイク画があります。

 

 中央には聖母子が玉座に坐し、聖母の膝の上のキリストは正面を見つめて祝福のポーズをとり、聖母は正面を向きながらもやや上を見ています。動きはほとんど感じられません。

 

 一方で、両脇には聖母子に向かい、数多くの天使が描かれていますが、両足をそろえて立ってはいるものの、穏やかな面持ちで手を差し出し、軽やかな衣は風にたなびいており、そこに動きが感じられます。

 

 足元の緑なす牧場には色鮮やかな花が咲き乱れています。

 

 9世紀初めに制作されたモザイク画は、ビザンティン様式を学びながらも既にローマ風にアレンジされているのが判ります。

 

 

 その上には天使に挟まれたキリストが坐し、両脇から使徒が各々の表象を持ってキリストに向かって歩みを進めています。

 

 

 玉座の下に跪き、聖母の靴を持つのは、モザイク画の作成を命じたパスカル (Pasquale) 1世法王です。法王自身は聖チェチリア・イントラステヴェレ聖堂や聖プラッセーデ聖堂のモザイク画の中にも見ることができます。

 

 パスカル1世教皇の光背が円形でなく四角なのは、存命していることを表しています。

 

35. Basilica di Santa Maria in Trastevere サンタマリア・イントラステヴェレ聖堂

 テヴェレ川をガリバルディ橋で渡ってトラステヴェレ地区に入り、ソンニーノ (Sonnino) 広場の手前を右折してルンガレッタ (Lungaretta) 通りを進むと聖堂前の同名の広場に出ます。

 

 広場にはカルロ・フォンタナ (Carlo Fon tana) が作成し、後にベルニーニが改修した噴水があります。ローマの下町の喧騒が残り、気取らない親しみやすい地域です。

 

 3世紀のキリスト教がまだ十分に普及していない時代にカルクトゥス (Calixtus) 1世教皇の命で聖堂が建設されました。ローマでも最古の教会に属します。

 4世紀半ばにユリウス1世教皇により聖堂は拡張され、9世紀にグレゴリウス4世教皇は、カルクトゥス1世教皇、コルネリウス教皇、カレポディウス教皇、を祀る地下聖堂を建設しています。

 

 聖堂は12世紀にロマネスク様式で再建されています。右手の鐘楼は12世紀からの遺構で、最上段に聖母子の小さなモザイク画が見えます。

 

 正面扉口前には、4人の教皇の立像が載る柱廊がありますが、1702年カルロ・フォンタナにより改修されたものです。

 

 その奥に見える15世紀のモザイク画は、中央に聖母がキリストに授乳しており、左右に5人の女性が燭台を掲げています。なぜかその内2名の燭台には火がともっていません。破風の内側にも聖母子のフレスコ画があったと思われます。

 

 聖堂内は三廊式で、イオニア式コリント式の柱頭飾りが施された22本の御影石の円柱が並んでいます。これは、ローマ時代の屋敷から移設されたものです。なかに、エジプトの神の飾りが見える柱は19世紀にピウス9世教皇によるものです。

 

 両脇に礼拝堂が不規則に並んでいます。

 

 中央主祭壇には班岩で出来た天蓋を囲むように、聖歌隊席が設置され、正面奥には12世紀に作成された大理石の司教座が置かれています。アプシスは聖母伝のモザイク画で一面が飾られています。

 

 円蓋には「聖母戴冠」が煌びやかなモザイクで描かれ、聖母はキリストの脇に坐し、聖母の隣に聖カリスタス、聖ロレンツオ、インノチェント2世教皇が聖堂を奉じて並び、キリスト側には聖ペテロ、聖コルネリウス、聖ユリウス、聖カレポディウスが並んでいます。

 

 上からは神の手がキリストの王冠を捧げ、下には12使徒の表象である羊がエルサレムとベツレヘムから出て、中央の「天の子羊」に向かっているところが描かれています。

 

 全てビザンティン様式の影響を受け、聖母はビザンティン帝国の皇妃の衣装で描かれ、動きの無い表現となっています。

 

 サンタマリア・マッジョーレ聖堂のアプシスのモザイク画も13世紀に作成されており、同様に「聖母戴冠」が描かれていますので、比較されることをお勧めします。

 

 

 凱旋門アーチには預言者のイザイアとエレミアが両脇に、上には4大福音書記者の表象が描かれています。

 

 窓を挟んで、「聖母の生涯」のモザイク画は13世紀のカヴァリーニ (Pietro Cavallini) の代表作です。「受胎告知」、「降誕」、「東方三王の礼拝」、「聖母被昇天」や、中央にある、「聖ペテロと聖パオロが脇侍するメダリオンの中の聖母子」ではモザイク画の制作を命じたステファネスキ枢機卿が小さく描かれています。

 

 天井の「聖母被昇天」は17世紀のドメニキーノ (Domenichino) 作です。

 

 なお、中央主祭壇の右手前に聖堂の起源となった油が噴きでた箇所とされる印があります。もともとこの地域には、戦役に従事できなくなった老兵達に、生涯の食事保証が元老院により与えられていましたが、キリストが降誕したその晩に大量の石油が湧き出て、テヴェレ川に注ぎ込んだとされています。その奇跡を重視して聖堂が建設されたのでした。

36. Basilica di Santa Maria Maggiore サンタマリア・マッジョーレ聖堂

 

 テルミニ駅前の五百人広場から南西に延びるカヴール通りを進むと、三層の階段の上に聖堂の後陣が見えるエスクイリーノ (Esquilino) 広場に出ます。左手から時計回りに廻ると聖堂の正面に出ます。

 

 聖堂前には同名の広場があります。聖ピエトロ大聖堂、聖ジョヴァンニ・インラテラノ大聖堂、聖パオロ・フオリレムーラ聖堂と並び、ローマの四聖堂の一つです。

 

 当初は8月の聖母被昇天の日に雪が降った場所に聖堂が建設されたことから雪の聖母聖堂 (Santa Maria delle Nevi) と呼ばれていました。

 

 5世紀半ばにシクストゥス (Sixtus) 3世教皇により建立された後、歴代の多くの教皇がこの聖堂の改築に関与してきました。そのため、初期キリスト教時代の構造から、ロマネスク様式、ゴティック様式、ルネサンス様式、バロック様式と、その時代の建築様式が混在しています。

 

 入口前の前廊は、12世紀にエウゲニウス (Eugenius) 3世教皇が、16世紀にはグレゴリー (Gregory) 13世教皇が、18世紀にはベネディクト (Benedict) 14世教皇が改築しています。

 

 ローマで一番高く75mあるロマネスク様式の鐘楼は、1377年にグレゴリー11世教皇により追加され、アプシスは13世紀にニコラス (Nicolas) 4世教皇と、17世紀、18世紀にクレメント (Clement) 10世教皇、11世教皇により改築され、聖堂正面は18世紀にベネディクト14世教皇の命でフェルディナンド・フーガ (Ferdinando Fuga) により現在の姿となっています。

 

 

 聖堂内部は三廊式で、40本並ぶイオニア式の柱頭飾りの円柱は5世紀、飾り大理石の床は12世紀で、平格間の天井はアレクサンダー (Alexander) 6世教皇に奉納されたペルー産の金で飾られたルネサンス様式です。

 

 

 中央祭壇手前のロドリゲル (Rodriguez) 枢機卿の墓は典型的なバロック様式です。中央主祭壇上の天蓋は1740年頃フェルディナンド・フーガが赤斑岩で作成したものです。

 

 

 アプシス一面を埋める「聖母戴冠」のモザイク画はヤコボ・トリッティ (Jacopo Torriti) 作で、1295年に完成しています。キリストと同じ玉座に坐す聖母の王冠にキリストは手を添え、左右には多くの天使が取り囲んでいますが、左側には聖ペテロと聖パウロ、聖フランシスコが並びます。

 

 

 右手には洗礼者ヨハネと福音書記者ヨハネ、聖アントニウスが並びます。その中で、小さく跪くのはニコラス (Nicolas) 4世教皇とコロンナ (Colonna) 枢機卿です。

 

 

 左手奥のパオリーナ (Paolina) 礼拝堂はグイド・レーニ (Guido Reni) により装飾され、パウル (Paul) 5世教皇に奉献され、右手奥のシスティナ (Sistina) 礼拝堂はドメニコ・フォンタナ (Domenico Fontana) が設計したギリシャ十字形で、シクスタス (Sixtus) 5世教皇に奉献されており、墓碑があります。

 

 身廊の円柱の上の両壁には旧約聖書と新約聖書を題材とした多くのモザイク画が並びます。高い場所にあるので、十分には見えませんが、一つ一つの場面はキリストの生涯を豊かな動作で表していることが判ります。

 

 5世紀からのものでローマでも最古のモザイク画に属します。なお、ローマでは、聖プーデンツィアーナ聖堂聖コスタンツァ霊廟サンジョヴァンニ・インラテラノ洗礼堂で見られるモザイク画が初期の物です。なお、ベツレヘムでキリストが降誕後に寝かされたとされる、まぐさ桶、キリストを包んだとされる衣、などの他に、多くの聖遺物が収納されています。

37. Basilica di Santa Maria sopra Minerva サンタマリア・ソープラミネルヴァ聖堂

Wikimedia Commonsより
Wikimedia Commonsより

 

 パンテノンの左手から裏手に廻るとベルニーニ (Bernini) 作の象の上に載るオベリスクのある広場に出ます。

 

 この象は1665年にサンタマリア・ソープラミネルヴァ聖堂の庭で発見されたものです。

 

 ローマ帝国時代にミネルヴァ女神を祀る神殿があり、その廃墟跡に7世紀に聖堂が建設されました。1280年になって再建されましたが、改築を重ね、現在に残る代表的なゴティック様式の聖堂です。

 

 

 聖堂内は三廊式です。

 

 

 天井は天空を表す青紺に金の星が見えます。聖母子のフレスコ画やモザイク画が多く飾られています。

 

 

 右翼廊奥のカラファ (Carafa) 礼拝堂にはフィリッピーノ・リッピ (Filippino Lippi) 作「聖母伝と聖トマスアキナス」のフレスコ画が、ジュリアーノ (Giuliano da Sangallo) 作、「クレメント7世教皇」と「レオン10世教皇」の墓碑、ベルニーニ作、「マリア・ラッジ (Maria Raggi)」の記念碑があります。

 

 

 内陣柱には1520年にミケランジェロが手掛けた「復活のキリスト像」、などの秀作を見ることができます。美術館の様な聖堂です。16世紀のグイド・グイデッティ作のフレスコ画が側面一杯に描かれています。

  なお、聖母の衣服、聖髪など聖母に関する聖遺物が収納されています。

 

38. Basilica di Santa Prassede 聖プレッセーデ聖堂

 

 サンタマリア・マッジョーレ聖堂正面の広場から南に延びるメルラーナ (Merulana) 大通りに並行している細いプラッセーデ通りを進むと右手に見えてきますが、聖堂の扉口はやや判り難くなっています。

 

 初期キリスト教時代には個人の民家だった集会所から発展した聖堂で、822年パスカル1世教皇により現在の聖堂の基礎が造られました。

 

 複合的な建設で、初期バシリカ様式で建設されましたが、両側廊が加えられ、13世紀にロマネスク様式で改築が行われました。

 フレスコ画は16世紀から17世紀に描かれたものです。格間天井は19世紀になってからです。

 

中央祭壇のモザイク画 (Wikimedia Commons より)
中央祭壇のモザイク画 (Wikimedia Commons より)

 

 中央祭壇のモザイク画は9世紀のパスカル1世教皇が存命中のもので、平面的な表現にビザンティン様式 を踏襲していることが判りますが、色彩にローマ風が現われています。聖ペテロと聖パオロに脇侍されたキリストが描かれ、聖職者として聖ゼノとパスカル1世教皇自身が描かれています。両脇の棕櫚の木は旧約聖書と新約聖書を表し、不死鳥はキリストの再来を表象しています。

 

 

 右側廊の聖ゼノ礼拝堂はパスカル1世教皇により、817年から824年頃に建設されましたが、黒大理石の柱、楣石、織り模様のある柱、上にある骨壷等が混在しており、資材は各所から調達されています。

 

 扉口の上には馬蹄形に二重に肖像画が並び、外側はキリストと12使徒が、内側は聖母子と聖職者が描かれています。

 

 

 中は矩形で、金色の穹窿の天井の頂点には、四方から天使に捧げられた円形の中にキリストが描かれています。四方の壁には聖十二使徒と聖母が描かれていますが、全て典型的なビザンティン様式です

 

 

 左側のアーチの下に描かれたモザイク画にはパスカル1世教皇の母、テオドラが聖母と一緒に描かれています。

 

 

 右側にはキリストが縛られて鞭打たれたとされる円柱の一部が13世紀にエルサレムから移遷され、聖遺物として収容されています。特にこの円柱はキリストが直接接した貴重な聖遺物として、多くの巡礼者を引きつけて来ています。なお、この円柱のもとに聖ゼノの聖遺骸が安置されています。

 

39. Basilica di Santa Pudenziana 聖プーデンツィアーナ聖堂

 

 テルミニ駅前の五百人広場からカヴール通りを西に向かい、サンタマリア・マッジョーレ聖堂の後陣が見えるエスクイリーノ (Esquilino) 広場に出たら右折してデプレティス (Depretis) 通りに入り、一本目を左折すると右側に見えてきます。

 

 ローマ帝政時代の元老院のメンバのプーデンツ (Pudenz) 家の自宅があった場所で、聖ペテロも訪れたことがあると言われています。

 

 

 4世紀末にはキリスト教徒の集会所として使用されていたと言われる程の古さを誇っています。プーデンツィアーナと言う名の女性がいたのか、プーデンツ家の娘と言う意味かは定かではありません。ともかく殉教者の中にはその名前はありません。

 

 聖堂は道路から一段と低い位置にあります。左手には12世紀に建設されたロマネスク様式の鐘楼があり、聖堂正面入り口上の楣石には天の子羊の浮彫があり、切り妻には聖母子が描かれています

 

 上層には両脇の窓に挟まれて、中央には玉座に坐すキリストが、脇には聖母と聖ヨハネと思われるフレスコ画があります。最上部の切り妻には天使を脇侍させたキリストが見えます。

 

 

 聖堂内は8世紀に側廊が追加されており、1589年にはドームが付け加えられたことで、ローマでも最古の部類に属す4世紀のモザイク画が一部取り除かれています。

 

 

 アプシスのモザイク画は中央にキリストが坐し、左右に聖十二使徒が描かれていますが、両端の使徒は見えず、使徒も胸部以上しか見えません。

 

 

 聖ペテロ、聖パオロに桂冠を捧げているのは旧約聖書と新約聖書の表象とも、キリスト教とユダヤ教の表象とも言われています。

 

 

 背景には中央にカヴァリエの丘に立つ十字架の脇にエルサレムとベツレヘムの街が描かれ、天空には4大福音書記者の表象が描かれています。ライオンと牛は見えますが、人と鷲は潰されてしまい、見えません。

 

 

 左側廊のカエタニ (Caetani) 礼拝堂は宗教改革に対抗して16世紀後半にヴォルテッラ (Francesco da Volterra) により作成され、大理石とフレスコ画で飾り立てられています。

 

 プーデンツ家の発掘が進むにつれ、2世紀から3世紀頃のローマ建築様式が判明してきましたが、6世紀に描かれたフレスコ画には聖ペテロと聖プーデンツィアーナと聖プラクセデス姉妹が描かれていました。

 

 初期モザイク画としては、サンタマリア・マッジョーレ聖堂、聖ジョヴァンニ・ラテラノ洗礼堂、聖コスタンツア聖堂のモザイク画を挙げることができます。

 

40. Basilica di Santa Sabina 聖サビーナ聖堂

 

 テヴェレ川にかかるパラティーノ (Palatino) 橋とスブリチオ (Sublicio) 橋の中間にあり、アヴェンティーノ (Aventino) 丘にあります。

 

 初期キリスト教時代の殉教聖人サビーナの個人の住宅があった場所で、キリスト教徒の集会所でしたが、5世紀初めのチェレスティノ (Celestino) 1世教皇時代にダルマチア出身のピエトロ司教により、典型的なバシリカ様式で聖堂が建設され、次のシスト (Sisto) 3世教皇の時代に完成しています。

 

 当時は洗礼堂を含む大きな聖堂でした。扉口前の柱廊の木製の扉に建設当時の遺構が残っています。

 

 

 9世紀のエウゲニオ (Eugenio) 2世法王の時代に大きな聖歌隊席が付け加えられ、13世紀にホノリウス3世教皇は宮殿として使用していましたが、聖ドメニコに与え、その修道会を1216年に承認しています。

 

 

 1220年にドメニコ派により鐘楼が建設され、16世紀には聖ジャチント (Giacinto) 礼拝堂と聖ドメニコ礼拝堂が造られました。

 

 

 聖堂内は三廊式で、イオニア式の円柱が高い天井を支えています。

 

 

 両側の窓から光を取り入れ、心地よい空間を構成しています。

 

 

 アプシス上の円蓋にはツッカリ (Zuccari) 作の「キリストと使徒」のフレスコ画があります。当初存在したモザイク画を元に描かれたもので、中央のキリストの脇に12使徒が立ち、下には流れ出る水を羊が飲んでいます。

 

 両脇には教皇を始め聖職者が描かれています。

 

 聖堂内はモザイクで飾られていましたが、現在ではユダヤ教とキリスト教を象徴する女性とその間の金文字に見られるだけです。

 

 

「バシリカ」

 バシリカとは集会所を指す言葉です。商人のバシリカは商人が集まる建物を指し、裁判官のバシリカとは裁判官の集まる所を指していました。

 

 ローマ帝国は宗教に寛大で、エジプトから伝来のイシス神を信仰する人々が集まった場所が、イシス信仰者のバシリカで、後にイシス神殿となって行きました。初期キリスト教徒のバシリカが、聖堂となって行ったのは自然の成り行きでした。

 

 バシリカの最初の建物は個人の住宅であり、集まる人数が増えてくると隣家まで拡張して行くことになります。バシリカ様式の聖堂は、長方形の建物の短辺に祭壇を設置したのが基本型となります。

 

 このような単廊式の聖堂に側廊を追加していくことで、三廊式、五廊式と拡大していくことが可能です。

 

41. Chiesa della Trinità dei Monti トリニタ・デイモンティ聖堂

 

 ローマを訪れた多くの観光客が訪れ、常に人で溢れているスペイン広場からスペイン階段を登った丘の上にある聖堂です。

 

 二つの鐘楼が並び建つ独特の建築で、1502年フランス王ルイ12世の命で建設が始まり、1585年に完成しています。南フランスの後期ゴティック様式の聖堂です。ナポレオン戦争の際に破壊され、その後当初の姿で復元されています。

 

 

 スペイン階段が上下の道を繋ぐために坂を利用して建設されたのは1728年のことで、聖堂の前の広場にあるオベリスク (Sallustian Obelisk) は1789年に立てられました。

 

 

 オベリスクは、巡礼者の目印とすべくピウス6世教皇が建てたとされていますが、フランス王の像を建てると言う案を封じるために、サルスチアン庭園から移設したと言うのが実体のようです。

 

「キリストの十字架降下」 (Wikimedia Commonsより)
「キリストの十字架降下」 (Wikimedia Commonsより)

 

 聖堂内にはマニエリストのダニエレ・ダ・ヴォルテッラ (Daniela da Volterra) の作品が飾られています。「キリストの十字架降下」ではミケランジェロの影響を受けたような肉体美がみられますが、「聖母被昇天」はラファエルを彷彿とさせます。

 

 

 なお、スペイン階段の右手にはキーツ・シェリー記念館 (Keats-Shelley House) があります。

 

the Keats-Shelley House (公式サイト)

http://www.keats-shelley-house.org/

 

行って見た感じになるバーチャルツアーもあります。

http://www.keats-shelley-house.org/ en/virtual-tour

 

42. Basilica di Sant'Agnese fuori le Mura サンタニェーゼ・フオリレムーラ聖堂

 

 地下鉄B線がボローニャ駅で枝分かれして新線が建設されたため、地下鉄で訪問することができるようになりました。

 サンタニェーゼ通りを登って行くと右側に見えて来ます。バスを利用した場合には、ミケランジェロが設計した1561年建設のピア門 (Porta Pia) を抜け、ノーメンターナ (Nomentana) 通りから訪れることもできます。

 

 4世紀初頭、ディオクレティアヌス帝の時代に12歳で殉教した聖アグネスの墓所があった場所に建設された聖堂です。同時代の聖アンブロージュとダマスクス法王が史実として記載しています。

 

 

 聖アグネスはキリスト教徒として、ローマ帝国の高官に嫁ぐことを拒否したため、売春婦として裸体を晒すことが命じられると、奇跡が起こり髪の毛が伸びて全身を覆い、光り輝いたと言われています。

 

 また火あぶりの刑に処せられた時でも、炎は聖アグネスを傷つけず、処刑者に向かったと言われています。遂に斬首の刑となってノーメンターナ通りの墓所に埋葬されたと言われています。

 

 地下の埋葬場所には殉教を称えるダマスクス教皇の碑があります。

 

 聖堂は4世紀半ばには祠が建設され、6世紀、7世紀、8世紀、11世紀と数回に渡り改築されています。右手に鐘楼があり、扉口は一ヵ所でロマネスク様式です。

 

 

 聖堂内は三廊式で、17世紀以降、両脇に三ヵ所ずつ礼拝堂が付け加えられています。コリント式の柱頭飾りのある円柱には色大理石が使われ、上部の聖職者の肖像画とその紋章を色彩豊かに支えるアーチを演出しています。

 

 

 中央祭壇には天蓋があり、17世紀初頭のパウロ5世教皇の時代に聖アグネスの聖遺骨を移遷しています。祭壇奥に飾られている聖アグネスの像はイシス神を基にしており、17世紀にフランス人のニコラ・コルディエ (Nicolas Cordier) の作です。天井の格間も17世紀に改築されています。

 

 

 アプシスは7世紀の建築のままで、金色の下地のモザイク画はビザンティン様式を踏襲しており、中央に聖アグネスが立ち、足元には火刑を示す赤い炎が見えます。左右の聖職者は6世紀初頭に祠を改築したシムマクス教皇と7世紀に聖堂を建設したホノリウス教皇です。

 

 

 聖アグネスはビザンティン帝国の妃の様な服装をしており、両聖職者の衣はほぼ同一の表現となっています。表情にも、立ち姿にも動作は感じられません。

 

注:Mausoleo di Santa Costanza  聖コスタンツァ霊廟の項も参照ください。

 

43. Chiesa di Sant'Agnese in Agone サンタニェーゼ・インアゴーネ聖堂

 

 ナヴォーナ広場の中央にある「四大河の噴水」に面して建つ大きな聖堂です。

 

 

 ドミティアヌス帝が紀元86年に建設した馬蹄形競技場の脇で、聖アグネスが殉教したとされる地に、8世紀には祠が建てられていた、との言い伝えが起源となっています。

 

 イノチェント10世教皇は1652年に教皇の宮殿に接続させ、一族用の聖堂としてレイナルディ (Girolamo Rainaldi) に改築を命じています。1653年から1657年までボッロミーニ (Borromini) が引き継いでいます。

 

 

 聖堂が完成したのは16世紀の末になってからです。競技場に面して建設された建物は当時の観客席の奥行き分しかないため、正面は人目を引きつけるために立体的に派手な造りとなっています。

 

 波打つ正面と複雑な二本の鐘楼にボッロミーニらしさが出ています。

 

 

 聖堂内はギリシャ十字型ですが、ドームを支えるコリント式の柱頭飾りのある斑岩の柱が、中央の交叉する四点から引きさがっているために、十字形の聖堂内部は八角形のように広がって見えます。

 

 中央祭壇には大理石製の浮彫が飾られていますが、ベルニーニ派の作品です。

 

 

 ドームには天頂の父とキリストの下に聖母に導かれる聖アグネスが大勢の天使、聖人と共に描かれています。

 

 

 側壁には聖セバスチャン、聖アグネスの像があります。

 

 フレスコ画浮彫で埋め尽くされた、バロック様式の非常に華やかな聖堂です。

 

44. Chiesa de Sant'Agostino 聖アゴスティーノ聖堂

 

 ナヴォナ広場から北に向かい、チンケ・ルーネ (Cinque Lune) 広場に出て左折すると聖堂の正面に出ます。

 

 1479年にフランスのルーエンの大司教であった、エストゥートゥヴィル (Estouteville) 枢機卿の命で建設が始まっています。

 

 聖堂正面には三ヵ所の扉口があり、中央扉口上には大きな丸窓があり、両脇の扉口上には小さな丸窓を配したシンメトリーのルネサンス様式で建設されています。

 

 正面から想像されるよりかなり大きな聖堂です。

 

 

 聖堂内は三廊式です。

 

 

 

 中央主祭壇にはビザンティン様式で描かれた小さな「聖母子」が色大理石を主体とした天蓋の中に飾られています。身廊と翼廊の交差点には鼓胴面無しに直接ドームが載っています。

 

 

 中央にはキリストの座像を12使徒が取り囲むように描かれています。

 

 

 この聖堂には美術館のように多くの有名画家の作品が掲示されています。

 中央右手の祭壇にはグエルチーノ (Guercino) の作品が掲げられ、左右壁にはランフランコ (Lanfranco) が「聖アゴスティーノの生涯」を描いています。

 

 扉口近くにはヤコポ・サンソヴィーノ (Jacopo Sansovino) 1521年作の「聖母子」があります。

 

 

 左側廊の最初の礼拝堂にはカラヴァッジョ (Carvaggio) 1605年作、「聖母子と礼拝者」があります。

 

ラファエロ (Raffaello Santi) 作「預言者イザヤ」 (Wikimedia Commons より)
ラファエロ (Raffaello Santi) 作「預言者イザヤ」 (Wikimedia Commons より)

 

 身廊の柱の側面にはラファエロ (Raffaello Santi) の「預言者イザヤ」等を見ることができます。その他、各礼拝堂や天井にも数多くの絵画が見られます。

45. Basilica dei Santi Bonifacio e Alessio 聖アレッシオ聖堂

 

 テヴェレ川にかかるパラティーノ (Palatino) 橋とスブリチオ (Sublicio) 橋の中間のアヴェンティーノ (Aventino) 丘にあります。

 

 トラステヴェレ地区から、スブリチオ (Sublicio) 橋を渡ると、丘の上にありますが、直接登る道が無いので遠回りすることになります。聖サビーナ聖堂とマルタ騎士団の館の間にあります。

 

 

 聖堂正面には円柱が並ぶ前廊があり、右手には鐘楼が立つと言う典型的なロマネスク様式の聖堂形態をしていますが、正面は二層式になっており、最上階は一段引き下がって切妻式の屋根が載っています。

 

 右手には大きな公園があり、住民の憩いの地となっています。

 

 

 聖堂内は三廊式ですが、バロック様式に改修してあり、中央祭壇の円蓋を含めて、全て青を基調とした色彩で統一されており、落ち着いた印象を与える聖堂です。

 

 

 ドームの頂点には聖霊の表象である鳩が金色で輝いていますが、周囲の貝殻やアカンサス模様も青で描かれています。左翼廊の聖母礼拝堂には聖母のフレスコ画が飾られています。

 

 

 この聖堂の名称となっている聖アレッシオはローマ貴族の子息でしたが、聖地エルサレムに巡礼に出かけ、帰国した際にはあまりにやつれていたため、家族が子息と認識できず、結局実家の階段の下で臨終を迎えるまで誰にも姿を見られることも無く改悛の生を送ったと言う伝説の聖人です。

 

 聖堂の左手に聖アレッシオの祭壇があります。聖アレッシオの他に聖ボニファキウスの聖遺骸が安置されています。

 なお、「階段下の乞食」は15世紀の宗教劇で良く取り上げられたテーマです。