トリエステ Trieste

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 トリエステ (Trieste)は、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の州都で、トリエステ自治県の県都。

 

 アドリア海に面した港湾都市で、スロベニアとの国境に位置している。

 

 イタリア政府観光局公式サイト

 トリエステ Trieste

 

 こちら↓には詳しい情報が掲載されています。

 「役立つクロアチア観光情報満載! クロたび」「イタリア」「トリエステ」

 

 

参考書籍

 「トリエステの坂道」

トリエステ Trieste

 

 街の説明

アドリア海の北端に位置し、イタリア半島の付け根にある港街です。

街の東端は、東隣のスロベニア共和国と国境を接しています。南のクロアチア共和国にも20キロメーターほどの距離です。

ヴェネチアからの鉄道では利用する時間帯によりますが、2時間から3時間かかります。ウーディネ(Udine)からは1時間で到着します。

ギリシャから欧州への通過地域として紀元前から人が住んでいた地域で、シーザーのガリア戦記にもタルゲストゥム(Tarugestum)として出ています。西ローマ帝国が滅亡した後は東ローマ帝国領となりますが、11世紀にはアクィレイア総主教(Patriarchi di Aquileia)の支配する地となっています。その後自由都市となりますが、ヴェネチアとの競争で神聖ローマ帝国の支援を受けたことから、神聖ローマ帝国の自由貿易港として発展しました。特に18世紀のマリア・テレジア帝の時代にアドリア海への玄関口として港は整備され、大型の船舶が寄港する港として繁栄していきます。ナポレオンの支配を受けた後、オーストリア領として統治されてきました。

イタリア王国独立後は旧ヴェネチア共和国領を含めて「未回収のイタリア」運動の対象地域としてオーストリアと帰属に関して抗争を続けてきました。トリエステは第一次世界大戦後、イタリア領となってトリエステ自由港となりますが、イストリア半島やアドリア海沿岸地域の帰属に関して、第二次世界大戦後はユーゴスラビアとの間で紛争が起こります。決着したのはユーゴスラビアが分裂し、1991年にスロベニアが独立し、クロアチアとの領土問題が決着してからのことです。

駅前から海岸線に沿って進むとゴプチェヴィック宮(Palazzo Gopcevich)やカルチオッティ宮(Palazzo Carciotti)など大きな建物が並んでいます。オーストリアの統治下に建設された海運業者の建物で、しばらく進むとイタリア統一広場(Piazza Unita d’Itaria)に出ます。

街を象徴する広大な広場で、市役所、政府機関やホテル、美術館、世界最大級の船会社だったロイズ(Lloyd)の本社やセルビアの船会社の本社など、歴史的な建物が周囲を整然と囲んでいます。また、自由貿易港を象徴し、四隅に配置された四人の人物像が四大陸を表象している、四大陸の泉(Fontana dei Quattro Continenti)があります。

広場の奥にはローマの遺跡の円形劇場があり、丘の上には2世紀に建設され、16世紀から17世紀に掛けて現在の形態となったとされる城があります。

整備された海岸線は寄港している大型観光船も見られて、散策に適していますし、旧市街の混雑とは別に、幅の広い通りが碁盤の目に整備された新市街には高級品店が並んでいて、見どころの多い街です。

歴史的な背景から他のイタリアの都市とは異なり、オーストリアの強い影響やバルカン半島のスラブ系、トルコ系などの人々による、多民族の文化習慣が見られ、異国情緒が味わえる街でもあります。民族間の紛争があった地域ですが、街は清潔で安心して散策ができます。

 

 

 Duomo  (San Giusto)   大聖堂 (サン・ジュスト)

統一広場からサンタマリア・マッジョーレ聖堂に向かい、聖堂の右側面に沿って坂道を登って行くと徐々に坂は急になって行きます。冬の雪道で滑らないように建屋には手すりが付いているほどです。両脇の木立の先に聖堂の入口が見えて来ます。

丘の頂上にはローマ共和制の時代の砦跡に16世紀に建設され、現在軍事博物館となっている、サン・ジュスト城(Castello di San Giusto)や、ローマの神殿の遺跡があります。神殿はその後キリスト教の聖堂建設に利用されたようです。

聖母に奉献する聖堂と、29311月に殉教した聖ジュスト(San Giusto)に奉献して6世紀頃に建設された聖堂が並んでいましたが、13世紀に二つの聖堂が統合されて一つの聖堂となっています。このように当初は二連式で建設された聖堂が統合され、もしくは分離された例は、アクィレイア、グラード(Grado)、ブレシア(Bresia )、パヴィア(Pavia )などでも見られます。

切妻屋根の下には大きな薔薇窓が在りその下にやや右にそれて扉口があります。扉口の両脇には旧聖堂から移設されたと思われる六人の聖人の顔の浮彫がはめ込まれています。聖堂の左側には聖堂に接して巨大な鐘楼が立っています。鐘楼の扉口の上には、左手に聖堂を捧げ、右手に殉教者の棕櫚を持つ聖ジュストの立像が見られます。

聖堂内は五廊式の大きな聖堂になっており、構造的にも非常に興味深い聖堂です。

身廊の中央には天井から複数の同心円が円錐状に並ぶ豪華な蝋燭立が下がっており、平常時には通行ができなくなっています。内陣近くの床にはモザイクが施されていますが、当初は床全体にモザイクが施されていたと推測されます。

中央主祭壇奥のアプシスにはモザイク画で聖母戴冠が描かれ、両脇に天使が立ち、天井を蒲鉾かたに、聖テクラ、聖エウフェミア等6人の聖人が跪いた姿で描かれています。

中央右祭壇は二連式聖堂のうち、南側に建っていた聖ジュスト聖堂の主祭壇であった思われます。中央にはキリストが聖書をもって立ち、左脇には聖ジュストが、右側には聖セウヴォロが矜持しています。ビザンティン様式のモザイク画で描かれており、キリストの青の衣装が印象的です。

下にはフレスコ画でキリスト伝が描かれていますが剥離が進んでいます。更に右側の祭壇には空の御座がフレスコ画で描かれています。

中央左祭壇は北側に建っていたサンタマリア・アッスンタ聖堂の主祭壇で、正面を向いて祝福の姿勢を示す幼児キリストが聖母の膝に座る玉座の聖母子が中央に描かれ、左右には大天使ミカエルとガブリエルが立った状態で描かれています。金色の背景に聖母の青色の衣が鮮やかなビザンティン様式のモザイクで描かれています。聖母子画はコンスタンティノープルにあるハギアソフィア聖堂に描かれた聖母子画との類似性が見られます。聖母子の下には聖使徒がモザイクで描かれています。一番左側にはピエタの祭壇があります。

 

側壁には洗礼盤や磔刑のキリストの礼拝堂、聖母の礼拝堂、哀悼の群像の礼拝堂、聖遺物容器を収めた礼拝堂などが並んでいます。バロック様式の祭壇には聖母の婚姻の絵画が掲げられ、金鍍金された聖母のイコン画やロマネスク様式の浅浮彫の祭壇衝立、ビザンティン様式で金属加工された祭壇衝立など、時代を超えた作品が多くみられ、美術館のような聖堂です。扉口の内側上にはオルガンが設置されています。

 Sant’Antonio Taumaturgo   聖アントニオ聖堂

駅から統一広場に向かって進むと港湾局の先に、運河(Canal Grande)を渡る橋がありますが、その橋の中央から北を向くと遠くに聖堂が見えます。聖堂の前には大きな広場(Piazza Sant’Antonio Nuovo)があります。周囲には高さの統一が取れた大きな建物が整然と並び、中には高級品を取り扱う店が入っている一方で、テントを張って衣料品や日用雑貨を商う出店が通りをふさいでいる一画もあります。

聖堂の正面には六本のイオニア式柱頭飾りの有る円柱が三角形の破風を支える柱廊があり、神殿のような造りです。聖堂の屋根には六人の聖人像(聖ジュスト・聖セルジオ・聖セルヴォロ・聖マウロ・聖エウフェミア・聖テクラ)が載っています。その奥にはドームが見えています。

19世紀の初めに建設された新しい聖堂です。

聖堂内は単廊式で、内陣の奥には半円形にキリストのエルサレム入城が描かれています。

 

両脇壁に三箇所の祭壇が並び、右側壁にはキリストの教育、神殿奉献、聖ジョゼッペの祭壇が並び、左側壁には聖アントニオの奇跡、聖女の殉教、磔刑の祭壇が並んでいます。全て19世紀に描かれた絵が掲げられています。扉口の内側上にはオルガンがあります。

 San Silvesto    聖シルヴェスト聖堂

統一広場から市庁舎の下を通り抜けて、ロマーノ通り(Via del Teatro Romano)に出ると、丘の上にサンタマリア・マッジョーレ聖堂が見えて来ます。聖堂前の階段を上ると右手にある小さな聖堂です。

12世紀に建設されたロマネスク様式の聖堂で、トリエステで一番古い聖堂です。

扉口は一箇所で、上には薔薇窓が有るだけで、煉瓦と粗石を積み上げた簡素な造りです。左側廊の中央には小さな鐘楼があります。

聖堂内は三廊式で、中央内陣の奥の壁に十字架が取り付けられただけで、簡素な主祭壇が置かれているだけです。左側壁にはオルガンがあります。柱や側壁にはフレスコ画や絵画など何も飾りが無い清楚な聖堂です。

聖堂の高さと幅、鐘楼の高さ、は小さい聖堂ですが均衡のとれた造りになっています。

 

なお、現在では福音派に属する聖堂になっています。

 Santa Maria Maggiore   サンタマリア・マッジョーレ聖堂

統一広場から市庁舎の下を通り抜けてロマーノ通り(Via del Teatro Romano)に出ると丘の上に見えて来ます。聖堂前の階段を上って行くと正面に出ます。

17世紀末に建設されています。

正面は切妻式で扉口は三箇所有り、中央の扉口の脇にはイオニア式の柱頭飾りの有る二連式の片蓋柱が三層に並ぶ、かなり装飾的な造りになっています。

聖堂内は三廊式で、中央主祭壇には17世紀末から18世紀初旬にかけて造られており、四人のイエズス会の聖人と二体の天使の立像が載り、中央にはキリストの立像が載るキボリウムがあります。アプシスには19世紀半ばにムラーノの画家セバスティアーノ(Sebastiano Santi of Murano)により、天の神と聖母と使徒がフレスコ画で描かれています。中央右側の祭壇は聖母の祭壇で左側は磔刑の祭壇になっています。天井には大きなドームが載っています。

右側廊の初めは19世紀半ばに造られた聖母子の祭壇(Santa Maria delle Grazie)で、次いでトリエステの殉教聖人、聖ジュストの祭壇と続きます。

左側廊の初めには洗礼盤が在り、二番目は18世紀初期のオーストリア・バロック様式の天使の祭壇には天使とトビオロ(Angelo e Tobiolo)が掲げられています。パルマ(Palma il Giovane)の流れをくむ作品です。次の聖イグナティオ祭壇には聖イグナティオの前に出現したキリストの絵があります。

扉口の内側上にはオルガンが置かれています。

 

なお、後陣の西側にある細い通りを抜けると、ローマ時代の門の遺跡(Arco di Riccardo)があります。十字軍から戻る途中にイングランド王のリチャード1世が通ったとされることからその名前がついています。

 San NicoloGreco Ortodossa di San Nicolo)  聖ニコロ聖堂 (ギリシャ正教)

駅から海岸に沿って統一広場に向かって進むと、海に向いて切妻屋根の両脇に二本の鐘楼が並ぶ聖堂が見えて来ます。1784年に建設が開始された新しい聖堂です。

トリエステが自由港として発展するにつれ、近隣から多くの民族が移り住むようになり、その人々の宗教が持ち込まれて、多種多様な宗教の聖堂ができてきます。

他のイタリアの街とは異なり、ローマ・カソリックだけでない聖堂が存在することが異国情緒を醸し出しています。

聖堂内は単廊式で、集会所のようになっており、ギリシャ正教の聖堂ですが、所謂ギリシャ十字形ではありません。正面には多くのイコン画が並び、一般信徒と聖職者を遮っており、内陣の内部や主祭壇は正面の一箇所からしか見えなくなっています。

ローマ・カソリックの聖堂も旧来は内陣を仕切る壁(衝立)が有りましたが、現在ではほとんど撤去されていますので、ギリシャ正教の聖堂の構造が奇異に映ってしまいます。またフレスコ画ではなく、イコン画が中心になっているのも独特です。

 

両側に座席が並び、その上にはイコン画でもフレスコ画でもなく、聖書を元にした絵画が掲げられています。天井にも絵が描かれており、余白は金箔で覆われていますので、全体として華やかな印象です。

 San Spiridione (Serbo Ortodosso di San Spiridione) 聖スピリディオーネ聖堂

(セルビア正教)

駅から統一広場に向かって進み、大運河(Canal Grande)を渡って、カルチオッティ宮(Palazzo Carciotti)の前を大運河に沿って、ベリーニ通り(Via Vincenzo Bellini)を進むと、噴水(Fontana del Giovannni del Ponterosso)のある広場(Piazza del Ponterosso )に出ます。聖堂はその一区画先です。

18世紀半ばに神聖ローマ帝国のマリア・テレジア皇帝により、セルビア正教が認可されたことで1869年に建設された聖堂です。セルビアの聖人、聖スピリディオーネに奉献されています。

聖堂はギリシャ十字形で、中央にはドームが載りその四隅に鐘楼が立つビザンティン様式の聖堂です。

聖堂の正面は狭いサンスピリディオーネ通りに面しているので、切妻式の扉口の上の9人の聖人立像と、その上に描かれた四人の聖人画は見上げることになり、少々見難い状況です。

左側面は新聖アントニオ広場(Piazza Sant’Antonio Nuovo)に面しているので、離れて見ることができます。扉口の上には聖母子が描かれ、その上には二人の聖人が描かれています。

 

聖堂の構造や、側壁に描かれた聖人の服装からローマ・カソリックの聖堂とは異なることが判ります。