ジェモーナ・デル・フリウーリ Gemona del Friuli

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 ジェモーナ・デル・フリウーリ (Gemona del Friuli)は、フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県 (Udine)にある町。

ジェモーナ・デル・フリウーリ Gemona del Friuli

 

 街の説明

イタリアの北東部にある街です。

ミラノから訪問する際には、ヴェローナ(Verona)で乗り換え、メストレ(Venezia Mestre)で乗り換えてウーディネ(Udine )まで行くことになります。特急列車でも5時間半ほどかかります。

ヴェネチア(Venezia)からはウーディネまでローカル電車で行くと、2時間かかります。

ウーディネからローカル鉄道を利用して北に向かうと30分程で到着します。ウーディネからはバスも運行されていますが、約1時間かかります。

紀元前500年頃からケルト人が住んでいたと看做されている歴史のある街です。その後、ローマの支配下に入っています。

オーストリアからアルプス山系の山道を通って南下すると、イタリアに入って、平原に出るところにある街です。交通の要所となっており、古来、北方民族がこの地を通りイタリアに侵略してきています。フン族、東ゴート族、西ゴート族などが通過して来ています。その後のロンゴバルド王国はこの地に砦を構えていますが、ロンゴバルド王国が崩壊した後にはフランスのカロリング王朝により城が築かれました。城は小高い丘の上に有り、旧市街はこの城を中心に発展して来ています。

13世紀から14世紀はアクィレイア総主教の下にあり、安定した発展を遂げてきています。1420年以降はヴェネチアの支配下に入っています。ナポレオン戦争の結果、一時オーストリアの支配下に入った時期があります。

街の歴史が示すように多様な支配を受けながらも中世の趣を持った街でしたが、197656日にこの地の近郊でマグニチュード6.5の大地震が発生し、多くの建屋が崩壊し、1000人がなくなる大惨事が起きています。地域名を取ってフリウリ地震と名付けられたこの地震により、歴史的な建造物は多く崩壊しています。

多くの聖堂の前には、地震の前と罹災時と復旧の状況を写真で示している案内板が立てられています。修復された聖堂と、破壊がひどくて復興させることを放棄された聖堂があります。また聖堂に限らず、各所に震災で倒壊した建屋の写真が掲げられており、当時の悲惨な状況を記録していると同時に、国際的な復興活動の成果として現在の街が在ることをも示しています。なお、2017年現在でも城は修復中です。

街の背後まで山が迫ってきていますので、遠くから見ると山の中腹に城が在り、城を中心に町が発展してきたことが良く分かります。と同時に平野部を睥睨している城の置かれた場所の重要性もうかがい知ることができます。

駅は西の端に在りますので、旧市街に向かい、1キロメーターほど勾配のある道を登って行くことになります。坂道を登るにつれ道が曲がり、見通しは悪く、そのうえ通りの名前が短い距離ですぐに変わるので小さな街の割には訪問先を探し出すのは難しいと言えるでしょう。

 

 

 

Duomo 大聖堂  (Santa Maria Assunta) (サンタマリア・アッスンタ)

駅前からダンテ通り(Via Dante Alighieri)を直進し、坂道を大きく曲がってドラゴ公園(Parc del Drago)の下に出てからベルグラード通り(Via Belgrado)に右折し、更にサンフランシスコ通りに左折して、スティマティンス通り(Rive Dai Stimatins)に入って直進すると南北に走る920日通りに出ます。右折すると旧市街の中心を通るカブール通りに出ます。920日通りとカブール通りの交叉点にある市庁舎が目印になります。

市庁舎前からビニ通り(Via Giuseppe Bini)に入ると左側に聖堂の正面が見えて来ます。

聖堂の正面は西に向かって建てられています。聖堂の裏には岩山が迫っています。

13世紀末に存在していた聖堂の跡に、14世紀半ばに建造されました。大きな聖堂ですが、1976年の地震では他の聖堂と同じように崩壊し、再建されています。

独立して聖堂の左手に建つ鐘楼も大聖堂が建設された後、同じく14世紀半ばに建設されています。50メーターの高さを誇る鐘楼です。同じく1976年の地震で崩壊した後に再建されています。

聖堂の正面には中央に一箇所扉口が有り、扉口上のティンパヌムには玉座のキリストが両手を挙げて祝福し、左右には聖母と福音書記者聖ヨハネの浮彫があります。なお、キリストの背景には十字架と茨の冠と槍とスポンジを挟んだ棒と三本の釘の浮彫が施されています。このようにアリマクリスティが背景に浮き彫りにされているのは非常に珍しい作例です。その下には左右3人ずつ拝礼する修道僧が彫られていますが、一部色彩が残っていますので、全面に彩色されていたと思われます。

その上には天の子羊の浮彫があり、更にその上にはアーチ型の屋根の中に玉座の聖母子と右側には、眠る東方三王にキリストの降誕を告げる天使、左側には東方三王の礼拝の高浮彫り像が並んでいます。下には聖十二使徒のメダイオンが刻まれています。その上には大きな薔薇窓が在ります。

扉口の右側には7メーターを超える聖クリストフォロスの立像が壁龕に納められ、左側には座る聖人像、その上に聖母子像、その上に磔刑像の浮彫が重ねて置かれていますが、地震で被害にあったことが見られます。左右にも薔薇窓が在り、左右対称形の聖堂ですが、扉口の両脇の像が異なるために均衡が崩れています。屋根の上には四体の天使像が載っています。

聖堂内は三廊式で、中央主祭壇の奥の後陣には半円形に聖歌隊席があり、アプシスはステンドグラスになっています。右側廊には地震で破壊されたキリストの磔刑像が収められた磔刑の礼拝堂が在り、19925月にヨハネ・パオロ2世教皇が訪問したことが記録されています。

扉口脇には、中央主祭壇に置かれていた1392年制作の木製に金箔を貼った一面祭壇画が展示されています。四層に分けられキリストの生涯の各場面が浮彫で収められており、受胎告知、最後の晩餐、逮捕、磔刑、聖母戴冠、最後の審判などの場面を見ることができます。

 

また四大福音書記者の表象や怪獣が彫られたロマネスク様式の石や、フレスコ画の一部もありますが、両側壁の礼拝堂や掲げられ絵画など全体として新しく再建された聖堂であると言えます。

San Rocco   聖ロッコ聖堂

920日通りから、リルティ(Via Liruti)通りとサンロッコ通りがV字型に分かれる交叉点に在ります。聖堂の扉口は南西を向き、建屋は南西から北東に向かって坂道に沿って建設されており、前には階段があります。

15世紀末にペストの災難からの回復を聖ロッコに祈念して建設されています。

17世紀初めに扉口をバロック様式に改修し、19世紀半ばには天井に最後の審判がフレスコ画で描かれていました。

扉口は一か所でイオニア式の柱頭飾りの片蓋柱が三角形の破風を支えています。後ろには19世紀に建設された鐘楼が見えています。

地震で多大な損害を被りましたが、元通りに再建されています

 

聖堂内は小さいながらも三廊式となっており、中央主祭壇にはキリストの磔刑像が置かれ、左右には聖母像と聖ロッコの像が置かれています。

Santa Maria delle Grazie     サンタマリア・デレ・グラツィエ聖堂

旧市街の中心を通るカブール通りを北西に進むと通りの名前がカネヴァ通り(Via Calro Caneva)と変わったところで右側の階段の上に遺跡が見えて来ます。扉口は南西を向いていました。

1976年の地震で完全に崩壊し現在では階段の上に扉口の一部と礎石が平坦な地面に残るだけになっています。再建するのを断念した様です。

バラツゥッティ通り(Via Giuseppe Barazzutti)に沿って、建屋は南西から北東に向かって建設されていたことが判ります。左側壁に二箇所の半円形に膨らんだ跡が見られますが、左側壁には合計で四か所の礼拝堂があっただろうと思われます。

 

聖堂の前の店に展示されている写真によると、切妻式で単廊式の聖堂であったことが判ります。中央主祭壇には立派なキボリウムが置かれ、天井にはフレスコ画が描かれており、右側壁中央に説教台が在ったようです。

Santa Maria di Fossale   サンタマリア・デイ・フォッサーレ聖堂

大聖堂と市庁舎の間にある狭いコンティ通り(Via dei Conti)に入り、坂道を北に向かって進むと右側に見えて来ます。

17世紀半ばに建設され、18世紀に拡大されています。天井にはフレスコ画が描かれていたようです。小さな切妻式の聖堂で、聖堂の扉口は南西を向き、建屋は南西から北東に向かってフォッサーレ通り(Via del Fossale)に沿って建設されています。

 

1976年の地震で崩壊した後に1990年に再建されています。

San Michele  聖ミケーレ聖堂

大聖堂からビニ通りを東に進み、坂道を下り、街を出る門を通過すると、街を迂回している国道20号線のトンネルが見えてきます。その手前でサンミケーレ通りに右折すると角に在ります。旧市街の東の端に位置しています。

 

切妻式の屋根を持つ小さな聖堂で、屋根の上に鐘が載り、前には柱廊まで構えていますが、既に聖堂としての役割を果たしていません。

San’t Antonio di Padova   聖アントニオ聖堂

ドラゴ公園を半円形に迂回するダンテ通りの北側に並行して走るサンアントニオ通りに面して在ります

 

聖堂の形はしていますが、近代的な建築物で、現在は美術館(Museo Renato Raffaelli)になっています。

Convento Suore Francescane  聖フランチェスコ修道院  

 

920日通りを、聖ロッコ聖堂の前を過ぎて北上し、チェッレ通り(Via Cella)を進むと右側に見えて来ます。街の西端に在ります。大規模な修道院で、聖堂に付随した修道院ではありませんので、一般の人は入れません。

San Giovanni Battista   洗礼者聖ヨハネ聖堂

920日通りから北に向かうパスコッティ―ニ通り(Via de Pascottini)に入ると、サンジョバンニ通りと名前が表示されています。突き当たると小さな広場が在ります。左折する狭い通りもサンジョバンニ通りですから、聖堂は恐らくこの広場に建っていたと思われます。

 

14世紀初めに建設されていますが、現在では聖堂と思われる建屋も見当たらず、通りの名前に残っているだけとなっています。場所だけでも探し出すのは困難です。