アクイレイア  Aquileia

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 アクイレイア (Aquileia)は、フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県 (Udine)にある町。

 

 ローマ時代の古代都市を起源とし、中世初期までイタリア北東部の中心都市であった。繁栄を極めた当時の遺跡は、世界遺産「アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバジリカ」に登録されている。

 

 イタリア政府観光局公式サイト

 「アクイレイアの遺跡地域と総主教聖堂バジリカ」

 

 「JAPAN-ITALY Travel On-line」「イタリア世界遺産の旅」「アクイレイアの遺跡と総主教聖堂バジリカ」

 

アクイレイアの美しい写真

 「旅の写真帳」→「イタリアの美しい村と町」→「アクイレイア/グラード

 

アクイレイア  Aquileia

都市案内

アクィレイアに公共交通機関を利用して訪問するには、イタリアの北東に在るウディネ(Udine)からバスで行くことになります。バスターミナルはウディネの駅前に在ります。一日に運行される本数は少ないので、あらかじめ確認しておく必要があります。約1時間で到着します。

 

ちなみに、ヴェネツィアからウディネまでは鉄道で約2時間かかります。

アクィレイアの歴史は古く、ローマ時代にさかのぼります。

ローマは領土拡大に伴い、イタリア半島の各地に植民都市を建設して行きますが、BC.268年にはローマからアペニン山脈を越えてアドリア海に出た場所に、イタリア半島と大陸との接点として植民都市リミニ(Rimini)を設営しています。BC.220年頃には北方の未征服地に軍事上の先端地として、ピアチェンツァ(Piacenza)やクレモナ(Cremona)等、ポー(Po)川流域に植民都市が設営されていきます。このころは、ハンニバル将軍がアルプス山脈を越えローマに攻め寄った第2次ポエニ戦争の時期に当たります。

ローマの植民都市建設は進み、BC.189年にはエミリア(Emilia)地方の中心にボローニャ(Bologna)が建設され、BC.187年にピアチェンツァからリミニまで、エミリア(Via Aemilia)街道が建設されています。アクィレリアはBC.181年にポー川の北側で、ケルト(Celt)人の住む辺境地に建設され、ローマに直結する形で運営されることになります。

アクィレイアは、ノリクーム( Noricum:オーストリアのダニューブ川以南)、 イリリア( Illyria:アドリア海東岸)、パンノニア( Pannonia:ハンガリーとスロベニア)、ダキア( Dacia:ルーマニア)、トラキア(Thrace:バルカン半島東部)、モエジア( Moesia:セルビア)を通じてマケドニア(Macedonia)に直結し、ビザンティン文化にも間接的に繋がり、更には遠く小アジアからペルシャに通じる幹線道路上にある軍事上の最前哨地としての位置付けで、重要な街でした。

アクィレイアには3000人の歩兵が配備され、100人隊長や指揮官の住む大都市となり、BC.160年には1500人の歩兵が追加移住させられています。

紀元前には青銅像の製造やガラス機器の製造などの特産品のほか、ローマの文化に北方と東方の文化が混在して独特な文化が生まれ、文化の集積地であり、発信する都市としての役割を果たしていました。

その後イタリアの第10番目の州の首府として都市の規模が拡大され、帝政時代の4世紀までには競技場、劇場、円形闘技場、浴場、港等が完備する大都市となり、ローマ帝国内で9番目に大きな都市にまでなっています。

4世紀末にはゲルマン民族の大移動に象徴されるように蛮族の侵入が盛んとなり、402年には西ローマ帝国はミラノからラヴェンナ(Ravenna)に宮廷を遷都しています。アクィレイアも繁栄を誇ったために、蛮族からの襲撃の目標とされ、西ゴート族のアラリック(Alaric:401年と408年)やフン族のアッティラ(Attila:452年)等、北方民族により繰り返し襲撃されるようになります。遂にアクィレイアを保持できず、ラグーンのグラード(Grado)に聖堂の秘宝をもって避難しますが、さらに南下してヴェネチア(Venezia)にも疎開が進んでいます。

 

なお、476年に西ローマ帝国は滅亡し、テオドリック(Teodric)の東ゴート王国の支配下に入りますが、その後遅れてきた北方民族の一つのロンゴバルド(Longobardo)族により、568年以降774年までイタリア王国のフリウリ(Friuli)公国の支配下に入ることになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 Cathedral 大聖堂

街に近づくと高い鐘楼が見えてきます。街の中央を走るアウグスト(Via Giulia Augusta)通りからパトリアルカ(Via Popone Patriarca)通りに入ると正面に大きな鐘楼が見えて来ます。聖堂前の広場から大聖堂の全体を見ることができます。

聖堂の正面入り口の前には直線上に八角形の大きな洗礼堂が屋根で接続されています。

方形の高い鐘楼の前には、ローマ創設の狼と双子の像が載る円柱が在ります。

現在の大聖堂の在る場所には、4世紀に聖堂が二棟並んで建設されていました。その南側の建物の上に11世紀にポポーネ総主教の下で建設され、その後改修を経てきています。

聖堂内はラテン十字形の三廊式で、コリント式柱頭飾りの円柱が両側に林のように並んでいる大きな聖堂です。

身廊の床面は発掘されたモザイク画で覆われています。この床モザイク画は320年頃にテオドロ(Teodoro)司教により建設された、二連棟のバシリカ様式の聖堂床面に施された旧南館の床面のものです。三面三列と横一面の10セクションに花綱で囲まれ分類されますが、セクション毎にモザイク画の主題が分れており、制作者が異なると推測されます。

(1)海を主題としたモザイク画(横一面の大きな画面)

 海を主題としたモザイク画の原点はアフリカ、ヘレニズムに求められ、特に3世紀のアフリカで多く見られるものです。現実に存在したであろう、多くの種類の魚介類が横に列をなして描かれていますが、描かれた魚等の大きさに現実感はありません。魚は海水中に生息しているというよりは、海面に浮いているように描かれ、遠近感や深度表現は見られないが、海の様子が生き生きと描かれています。なお、魚を取るクピドに紛れて、旧約聖書のヨナ書からの引用画が認められます。

(2)幾何学模様

 9セクションの殆んどすべてのセクションに見られ、中でもソロモン結び模様が繰り返し見られます。

(3)生物

 犬、鹿、牛、馬、ウサギ、羊、山羊、亀など見て何が描かれているのか分る動物が中心ですが、鶏や野鳥など身近に見られる鳥類も描かれています。

(4)人物

 メダイオンの中に、描かれる人物の顔は若者が多いが、葡萄の収穫、鳥を放つ少女など動作をする人物表現のセクションも見られます。なお、良き羊飼いのように、キリストを表現する画面は一か所にとどまっています。

 なお、第2のアクィレイアと呼ばれるグラードのかつての大聖堂である聖エウフェミア聖堂の床にも幾何学模様のモザイク画が敷き詰められていましたし、聖母聖堂や廃墟となっている聖福音書記者ヨハネ聖堂の床にもモザイク画が敷き詰められていた痕跡があります。

現在の聖堂のアプシスに描かれたフレスコ画は、玉座に座る聖母子を中心に人物が描かれています。剥落が進んでおり、人物像の表情や衣服の輪郭は明確ではなくなっています。

聖母子の周囲には四大福音書記者の表象が描かれ、聖母子の右手(向かって左)に順番に聖マルコ(San Marco)、ハインリッヒ2世神聖ローマ帝国皇帝(Emperor Heinrich II1014-1024年)、聖ヒラリー(S.Hilary)、ポポーネ総主教(Patriarch Popone1019-1045年)は聖堂を掲げ聖母子に奉納する姿で立ち、最後に聖タティアン(S.Tatian)が並んでいます。聖母子の左手(向かって右)に順番にハインリッヒ3世神聖ローマ帝国皇帝皇太子(Prince Heinrich III)が小さく描かれ、初代アクィレイアを司教の聖エルマゴラ(SantErmagora)、コンラッド2世神聖ローマ帝国皇帝(Emperor Konrad II1027-1039年)、聖フォルテュナト(S.Fortunato)、聖エウフェミア(Sant'Eufemia)、ジゼラ皇帝妃(Empress Gisela)が並んでいます。二人の神聖ローマ帝国皇帝はこの聖堂の建設に直接関与した皇帝です。

なお、下段のハート型のメダイオンの中に描かれた人物はアクィレイアでの殉教者とされます。 

クリプト(Crypt)は、三廊式の形態をとっており、柱には仕切板がはめ込まれていた痕跡が残っています。周囲の壁にはキリストの受難が描かれていますが、天井の中央には玉座の聖母子が描かれ、その他は主としてアクィレイアの初代司教であった、聖エルマゴラ(SantErmagora)の生涯が描かれています。

ビザンティン帝国のコムネノス朝(Comnenus1057-1185年)時代の1140年代の円熟期に流行した作品との類似点が指摘されています。マケドニア(Macedonia)のネレツィ(Nerezi)に在るSan Panteleimon聖堂の天井画(1164年作成)と、キリストの十字架降下に見られる落胆の表情や落涙の表情、角度のある目、深い額の皺などに多くの類似点が見られるとされます。

しかしながら、輪郭線の使い方や色彩に地方色が見られ、アクィレイアの場合はその土地の出身者による作成で、作画年は12世紀末ごろと推定されています。ビザンティン様式のイコンのような固い表現に比べて、アリマタヤのヨセフとニコデモはその動作に合わせて衣服が波打っており、傍らに佇む聖ヨハネの衣の襞まで際立って描かれています。揺れ動く服装が人物を生き生きと描きだしており、ロマネスク様式の傾向が強く感じとられます。

なお、アクィレイアのクリプトのフレスコ画に類似するフレスコ画は、ポルトグルアーロ(Portogruaro)の郊外に存在する、スンマガ(Summaga)の、サンタマリアマッジョレ修道院(Abbazia di Santa Maria Maggiore)とセスト・アル・レゲーナ(Sesto al Reghena)の、サンタマリア・デ・シルヴィス修道院(Abbazia di Santa Maria de Silvis)等が挙げられます。

キリストの受難を描いたフレスコ画の下に、馬上で後ろ向きに半月弓を弾く兵士の姿が描かれています。この動作はアラビアの兵士の戦術で見られであることからイスラーム軍の兵士であることが判ります。その兵士を追う槍を持つ兵士は着ているメイル型の鎧と尖った靴からフランク兵であることが推測されます。このことから、十字軍の戦闘を描いた図と見ることができます。

 

画面の上に波打つ帯状からカーテンのように襞が描かれることで、壁に掛けられたタピストリーを思わせる効果を出しています。色彩は他の宗教画と同様に赤と緑を主体としたものになっています。

 San Antonio  聖アントニオ聖堂 

アクィレイアの村を南北の走るアウグスタ(Via Giulia Augusta)道の街の南端の近くに、国立考古学博物館があります。国立考古学博物館に沿ってローマ道(Via Rome)を西に向かいしばらく進むと左側に見えてきます。

正面には一箇所の入口が有り、その上には子供を抱いた聖アントニオの小さな立像が載っています。両脇には子供の天使が矜持していますが、円柱の両脇の壁龕には殉教聖人の立像が収ま(Crypt)っています。屋根の上にはキリストと天使が見えます。

 

聖堂内は八角形のドームが載る広さです。正面の主祭壇には聖アントニオが子供を抱いた絵が飾られ、その上には受胎告知のフレスコ画が見えます。ドームの八面は全て女性の殉教聖人が子供と描かれています。入口の上には音楽を奏でる天使とその上にはキリストのエジプト避行のフレスコ画が小さく描かれています。フレスコ画が多く残されている、小さな落ち着いた聖堂です。

補足(2019123日)

教皇ベネディクト十六世の119回目(2007125日)の一般謁見演説 

アクィレイアの聖クロマティウス(Chromatius Aquileiensis 407年頃没)について。

アクィレイアの教会は、当時の他の多くの教会と同じように、アレイオス派の異端の脅威にさらされていました。ニケア公会議の正統教義の主唱者であり、アレイオス派によって追放されたアタナシオ(Athanasios 295頃-373年)も、一時アクィレイアに逃れていました。司教たちの指導の下に、アクィレイアのキリスト教共同体は異端の企てに立ち向かい、カトリック信仰との一致を強めました。
 3819月、アクィレイアは教会会議を開催しました。この教会会議にはアフリカ北部、ローヌ渓谷、そして第10属州全域から約35名の司教が集まりました。この教会会議の目的は、西方におけるアレイオス派の最後の残党を滅ぼすことでした。司祭クロマティウスはアクィレイアの司教ウァレリアヌス(Valerianus 在位3701371387388年)の顧問として教会会議に参加しました。

 

アクィレイアの裁治権は現在のスイス、バイエルン、オーストリア、スロベニアからハンガリーにまで及びました。