トレンティーノ・アルト・アディジェ州

トレンティーノ・アルト・アディジェ特別自治州 地図
トレンティーノ・アルト・アディジェ特別自治州 地図 (Wikimedia Commons)

 トレンティーノ・アルト・アディジェ特別自治州 (Trentino Alto Adige)は、イタリア北東部に位置する州。州都はトレント。

 

 トレント (Trento)を中心とする州南部のトレンティーノ地域と、ボルツァーノ (Bolzano)を中心とし、南チロル (Südtirol)とも呼ばれるアルト・アディジェ地域からなる。

 

 

 イタリア政府観光局公式サイト

  トレンティーノ・アルト・アディジェ州

トレンティーノ・アルト・アディジェ州の都市と教会

 

 トレント Trento

 街の説明

ヴェローナ(Verona)から鉄道で約1時間北上しますので、アルプス山脈が間近かに迫ってきますし、気温も下がって来ます。街を南北に流れるアディージェ川(Fiume Adige)に沿って街が開けており、駅は川沿いの、街の西端に在ります。駅前には緑豊かなダンテ広場(Piazza Dante)が在り、朝市が開かれていますが、蜂蜜、チーズ、ジャム等農家自家製の商品を並べる店が目立ちます。

街の東端に在るのが16世紀半ばにカソリック教の勢力の強大さを誇示するために建設されたブオンコンシーリョ城(Castello del Buonconsiglio)です。トレントはこの地方(Trent-Alto Adige)の州都で、街の規模は大きいのですが、聖堂や城、美術館は駅と城を結ぶ線の南側に集中していますので、歩いて見て廻ることができます。

紀元前23年にローマ帝国により建設された街で、当時はトリデンタム(Tridentum)と呼ばれていました。南からトレントの街に入るヴェローナ門(Porta Veronensis)は紀元1世紀にクラウディウス帝(Tiberius Claudius)により建設されており、現在ドゥオーモの脇に在る司教区博物館に展示されています。

その後、北ヨーロッパとの交易で発展してきましたが、16世紀になって、神聖ローマ帝国の主教侯(Prince Bishop)の領地として急速に発展しました。

トレントの街は1545年から1563年に掛けて開催された第19 トレント公会議を抜きにして語ることはできません。この公会議は宗教改革運動の拡大を阻止するため、神聖ローマ皇帝カール5世の強い要請を受け、パウルス法王により召集されましたが、政治的・宗教的な紛争により途中何回も中断されています。公会議は大きく4会期に分けられ25の総会が開催されました。10年以上に渡る長期間を要しましたが、公会議の中でも一番すぐれたものであり、実り多きものであったとされています。主な教令として、「聖書と伝承について」「洗礼と堅信について」「聖体拝領について」「ミサ聖祭について」「叙階の秘跡について」「煉獄、聖画像、免償について」等が公布されています。全ての教令は1564年、ピウス4世法王により承認されています。

   従いまして、公会議に関連する、ブオンコンシーリョ城、ドゥオーモ、プレトーリオ宮殿(Palazzo Pretorio=現在は司教区博物館)は必見です。

なお、1562年に公会議を再開させ、会議を終焉させたピウス4世法王の甥のカルロ・ボッロメーオは1564年にミラノ大司教に就任し、没後1602年には早くも福者に、1610年には聖人に列聖されています。

 

   宿:街中には高級な宿がありますが、数は多くは在りませんし、大きな宿も有りません。早めの予約が必要でしょう。郊外には長期滞在者用を含めて、魅力的な宿が多くありますので、車で訪問される方に向いています。

 

 

 

トレント 大聖堂

1212年にそれまで在った教会の跡に、第3代目司教で街の守護聖人ウィジリオス(Vigilius)に奉献して、ロマネスク様式で建設されました。

ドゥオーモ広場には18世紀にジョンゴ(Francesco A. Giongo)が制作したネプチューン(Neptune)の噴水が在り、周囲にはプレトーリオ宮殿(Palazzo Pretorio=現在は司教区博物館)を始め、フレスコ画の残るバルドゥーニ(Casa Balduini)館など、中世からの歴史的な建造物を見ることができます。飲食店も多く、庶民の集う街の中心地となっています。

  ドゥオーモはこの広場の一面を占めており、向かって左手の角に大きな薔薇窓とその上には八角形のドームがそびえています。右手の角には鐘楼が見えています。鐘楼側に廻ると、大きな薔薇窓が見え、正面の入口が在ります。しかしながら、このドゥオーモは広場に面した、いわば聖堂の脇から入るようになっています。

入口には2頭のライオンが円柱を支える柱廊が在り、ティンパヌムには中央に荘厳のキリストが坐り周囲に四大福音書記者の表象が浮彫にされています。

  内部は三廊式の大きな聖堂で、フレスコ画が一部残っていますが、壁面は飾り立てられてはおらず、落ち着いた大聖堂です。第19回トレント公会議は主としてこの大聖堂で開催されました。

 

地下聖堂には6世紀以前の聖堂の遺構を見ることができます。

Sant’Apollinare  聖アポリネール聖堂

  駅からアディージェ川(Fiume Adige)に向かい坂道を下りて行くと、川の向こう側に鐘楼と一体になった背の高い、白い小さな聖堂が見えてきます。聖ロレンツォ橋(Ponte S. Lorenzo)を渡り、川上に向かって土手を少し行ったところに在ります。

1320年に法王により、現在の聖ロレンツォ聖堂から追放されたベネディクト派により建設されました。聖堂の建設に当り、資材はローマ帝国時代の石材や古代の建物が利用されたようです。鐘楼の土台近くには14世紀の石棺が置かれています。

 

中は単廊式の小さな聖堂で、ニコロ(Nicolo da Padova)作の聖母子像のフレスコ画が見えますが、元は聖堂の外に在った物です。

San Lorenzo  聖ロレンツォ聖堂

  駅を出ると直ぐ右手に見えてきます。鉄道の駅とバスの駅の中間で、表の道からやや下がった所に在る小さな聖堂です。

中世初期に建設され廃墟となっていた聖堂の跡に1166年から1183年の間に、ベネディクト派の修道院として建設されたもので、トレントでも古い聖堂の一つです。

1234年には修道院活動としての未開地の開墾活動が時の法王庁の政策と合わず、現在の聖アポリネール聖堂への移動を余儀なくされています。その後ドミニコ派の聖堂となりました。

トレント公会議(1454年から1563年)の期間中は、スペインやポルトガルから派遣された名前の残る神学者の他に、広くドミニコ派の神学者の宿として使用されました。また神聖ローマ帝国皇帝の大使、ポルトガル王の使節団、各地の司教、大司教の宿にもなっています。

1778年に時の主教侯ピエトロ(Prince Bishop Pietro Vigilio Thun)により修道院活動が停止され、牢獄として使用されていました。その後は救貧院や軍事施設に使用され廃墟となっていました。第二次大戦で破壊されましたが、戦後再開され現在に至っています。

修道院の時代は現在のバスの駅にまで建物が続く規模が在りました。

このように過去の歴史が示す様に、縮小、破壊、再建が織りなした結果、聖堂の外観はロマネスク様式ですが石材やレンガで大幅に改修されています。正面はシンプルな造りで、入口の脇に二箇所の窓が在るだけです。脇の鐘楼は17世紀初頭にロマネスク様式で再建されていますが、最上階部分の方尖塔は独特な形態になっています。

 

聖堂内は三廊式ですが、側廊は幅が狭く、ロマネスク様式からゴティック様式に移行する時代を反映しています。内陣は一段高くなっていますが、バロック様式のものは取り除かれ、現在は一層簡素になっています。アプシスの正面には聖ロレンツォが、側面にはシエナの聖キャサリンとアッシジの聖フランチェスコが描かれた窓が在るだけです。穹霳に支えられた天井には赤い星形が多く見られます。周壁は絵画で飾り立てられることもない簡素な聖堂です。

Santa Maria Maggiore 聖母マリア聖堂

駅前のダンテ広場(Piazza Dante)に沿って南に進むと同名の広場(Piazza Santa Maria Maggiore)に出ます。

ローマ帝国時代にはこの地に神殿が在りましたが、キリスト教が公認されたのちは、街で最初のキリスト教の聖堂として使われました。脇には街の守護聖人ウィジリオ(Vigilio)が埋葬された墓地が在り、その上にロマネスク様式の聖堂を建て、聖母マリア聖堂(Santa Maria Della Nove)と呼ばれていました。

その後、16世紀になり、主教侯クレシオ(Prince Bishop Bernardo Clesio)により、1520年から1524年に掛けて現在の聖堂が建設されました。この建設に携わったアントニオ(Antonio Medal)はマントヴァ(Mantova の聖アンドレア聖堂(Sant’Andrea)を参考にしたと言われています。ゴティック様式とルネサンス様式を混合させた建築で、クレシア様式(Clesiano-Style)と言われます。薄い赤と白の縞模様の建屋は大きな聖堂にもかかわらず、柔らかな印象を与えています。

司教座こそ有りませんが、格式の高い聖堂です。

正面は20世紀になって改修されていますが、ティンパヌムには受胎告知が描かれ、薔薇窓の両脇には聖ペテロと聖フィリッポ・ネリの立像が見えます。

脇の鐘楼は53メーターの高さが在り、街で一番高い建物です。ロマネスク様式の細い二重の窓が見えます。

トレント公会議はドゥオーモとこの聖堂で開催されましたが、特に1551年ユリウス3世法王により召集された第3会期はここで開催されました。

 

聖堂内はバロック様式で飾られており、アプシスには聖母被昇天が描かれ、その上の天蓋にもまた聖母被昇天が描かれています。内陣に在るオルガンは1536年製で、トレント公会議の時代に制作されたものです。

San Pietro  聖ピエトロ聖堂

駅前からダンテ広場(Piazza Dante)に沿って南下し、聖ロレンツオ聖堂(San Lorenzo)を越えて、ローマ通り(Via Rome)に出てから、東に向かいます。ブオンコンシーリョ城(Castello del Buonconsiglio)の手前をピエトロ通り(Via S.Pietro)に入ると、直ぐ左手に見えてきます。

13世紀に既に存在していた聖堂の跡に15世紀になって現在の聖堂が建設されました。同じく15世紀に建設されたゴティック様式の鐘楼が脇に在りますが、多角形の尖塔には緑色のタイルが貼られており、遠くからでも存在を認めることができます。16世紀に火災で甚大な損害を受けましたが、再建されています、正面は19世紀半ばに改装されていますが、ネオゴティック様式で、ヴェネティアの影響が見られます。屋根の上には聖ペテロの立像が在ります。

 

聖堂内は三廊式で、八角形の柱が支える天井は見事です。ルネサンス様式の礼拝堂が二箇所在ります。内陣は15世紀のゴティック様式で、アプシスにはキリストの磔刑像が掲げられています。主祭壇は18世紀のバロック様式です。周壁には多くの絵画が飾られています。