チヴィダーレ・デル・フリウーリ Cividale del Friuli

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 チヴィダーレ・デル・フリウーリ (Cividale del Friuli)は、フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア州ウーディネ県 (Udine)にある町。

 

 古代、この町は当地の総督を務めていたユリウス・カエサルにちなんで、ラテン語で「Forum Iulii (ユリウスの広場)」と呼ばれていた。この名が変化して現在の「フリウーリ (Friuli)」になった。

チヴィダーレ・デル・フリウーリ   Cividale del Friuli

都市案内

 ヴェネツィアから公共交通機関を利用してチヴィダーレ・デル・フリウリに行くには、最初に北東の街ウーディネ(Udine)まで鉄道で約2時間かけて行くことになります。更にウーディネから第三セクターの鉄道に乗り換えて20分ほどで着きます。チヴィダーレ・デル・フリウリに行く鉄道もウーディネの駅の中のプラットフォームから出発しますので、同じ鉄道会社のように見えますが、切符はウーディネの駅では購入できません。一旦駅を出て、切符を取り扱う店まで行く必要があります。チヴィダーレ・デル・フリウリに行く鉄道は二両編成のローカル列車で、1時間に1本しか有りませんので、訪問するにはウーディネに宿泊することをお勧めします。

チヴィダーレ・デル・フリウリは紀元前にはケルト族の住む地域でしたが、ユリウス・シーザーにより、ローマに編入されたことから、シーザーの名前をとってフリウリの名前を残しています。ローマの街ですが、市内にはローマの遺跡は残っていません。

568年にロンゴバルド族が北方からアルプス山脈を越えてイタリアに侵入し、この地域一帯を占拠した際に首都として設定した歴史を持った街です。その後ロンゴバルド族は西進して、ブレシアやミラノを占領し、パヴィアを王国の首都としましたが、王国の原点とも言うチヴィダーレ・デル・フリウリの街は、フリウリ公国の首府として有力な地位を確保していました。

またアクィレイアの総主教座が分裂した際にグラードの総主教ではなく、アクィレイアの総主教を保護して、政治と宗教の中心地として栄えました。

当時の繁栄を大聖堂の内陣に見ることができます。中央主祭壇には金鍍金された銀板に浮彫彫刻を施した祭壇板が置かれています。三連アーチの中央には聖母子が正面を向いて玉座に座し、両脇に大天使ガブリエルとミカエルが矜持しています。その外側は三段に分かれて使徒と聖人が小さく立像で彫られ、周囲を24人の聖職者の胸像が囲んでいる大きな立派な祭壇板です。この祭壇板はペレグリーノ2世の祭壇板(Pala di Pellegrino II)と呼ばれていますが、ペレグリーノ2世はチヴィダーレ・デル・フリウリ生まれの貴族で、1195年にアクィレイアの総主教になった人物です。

街は三段階で発展拡張されてきていますので、街中に多く存在する聖堂も建設された時代により場所と構造等の変化を見ることができます。当初のロンゴバルド時代に城壁内にあった聖堂は現在の大聖堂だけです。その後アクィレイア総主教の時代に聖フランチェスコ聖堂、サンタマリア・イン・ヴァーレ聖堂、聖シルヴェスト聖堂が建設され、15世紀以降ヴェネツィアの支配下において聖マルティノ聖堂、聖ビアージョ聖堂、聖ピエトロ聖堂が建設されています。それ以外の聖堂はその後の建設です。

 

参考:アクィレイアの聖堂の創始者は福音書記者の聖マルコとされていますが、聖マルコが使徒の聖ペテロに聖エルマゴラを紹介し、聖別された聖エルマゴラが初代の司教としてアクィレイアに赴任したことから始まる、ことになっています。従って、聖ペテロと聖マルコと聖エルマゴラは同時代人ということになりますが、実際には聖エルマゴラは3世紀の人物だったろうと推定されています。まだキリスト教が公認される前の人物で、殉教者とされます。街の拡大につれて、聖堂に司教座がおかれ、ワレリアヌス(Valerianus369-388年)以降は大司教座の有る聖堂となっています。なお381年にはアクィレイアで教会会議が開催され、ミラノの大司教、聖アンブロージョ(SantAmbrogio)がアクィレイアを訪問した記録が残されています。

その後、宗教上の問題で、ローマ法王に対抗したマケドニウス(Macedonius535-556年)大司教はギリシャ正教の総主教(Patriarch)という称号を使用し始めます。なお、アクィレイア総主教は蛮族からの侵略を避けてグラードに避難しましたが、アクィレイアに残った聖職者は606年に新たにアクィレイア総主教を選出しています。グラードのアクィレイア総主教はビザンティン(Byzantium)帝国のラヴェンナ(Ravenna)総督やヴェネツィアの統領に支援されますが、新アクィレイア総主教はランゴバルド王国のフリウリ公の庇護を受け、699年にチヴィダーレ・デル・フリウリに移って総主教座は完全に分裂してしまいます。その後グラードのアクィレイア総主教は廃止され、統一を見ますが、15世紀になるとヴェネツィアに統合されることになります。

 

駅は街の北西の端に在りますが、中心地までは歩いて10分程です。街の南を流れるナティゾーネ(Natisone)川は美しい渓谷を作っています。

 

街には中心となる広場が二つあります。ドゥオーモ広場の前には市庁舎があり、前にシーザーの像が立っています。パオロ・ディアコノ広場の周辺には多くのレストランがあって、それぞれ人々で賑わっています。 ドゥオーモ広場に在る国立考古学博物館と大聖堂の脇に在る大聖堂付属美術館は、ロンゴバルド時代の歴史と美術史を知るために、重要な博物館です。

大聖堂付属美術館は大聖堂を一旦出て、外側から入りますが、通称ペンモの祭壇(Altare del Duca Ratchis)と呼ばれる、石に浅浮彫彫刻の施された8世紀作成の祭壇が収容されています。正面は「荘厳のキリスト」で、側面は「東方三博士の礼拝」と「ご訪問」が彫られています。また同じく8世紀の八角形の大型の洗礼盤(Battistero Ottagonale di Callisto) のほか、聖遺物容器が展示されています

小さな街ですから一日あれば主要な場所は見て回ることができます。

 

Santa Maria in Valle   サンタマリア・イン・ヴァッレ聖堂 

ドゥオーモ広場から、国立考古学博物館の裏手をマッジョーレ通り(Via Monastero Maggiore)に進み、坂道を下って、建屋の下を通り抜けるとトッレ通り(Via Dalla Torre)に出ます。

 

聖堂はこの細い道に面した鉄製の門扉で隔たれています。赤子を抱える聖女像の下の門を抜けると、奥に聖ヨハネ聖堂(San Giovanni )が見えて来ます。正面の右側に鐘楼が建ち、前には柱廊が見えますが、聖堂全体を見渡すことはできません。ナティゾーネ川の渓谷に沿って建っています。

<洗礼者聖ヨハネ(San Giovanni Battista)聖堂>と<ロンゴバルドの小神殿(Tempietto Longobardo)>と<サンタマリア修道院>の複合施設となっています。

 

ドゥオーモ広場から、国立考古学博物館の裏手をマッジョーレ(Via Monastero Maggiore)通りに進み、坂道を下って、建屋の下を通り抜けるとトッレ(Via Dalla Torre)通りに出ます。

聖堂はこの細い道に面した鉄製の門扉で隔たれています。赤子を抱える女性像の下の門を抜けると、奥に洗礼者聖ヨハネ聖堂が見えて来ます。正面の右側に鐘楼が建ち、前には柱廊が見えますが、聖堂全体を見渡すことはできません。ナティゾーネ川の渓谷に沿って建っています。なお、建設当時の聖堂は洗礼者聖ヨハネに奉献されましたが、後に福音書記者聖ヨハネと混同されたようです。この場所はフリウリ公国の政治の中心地(Gastaldaga)で、宮殿が在った場所でした。7世紀にまで遡ることができますが、9世紀末に多くの建屋が追加され、聖堂、礼拝堂、祈祷堂、修道院が包含されていきます。その後も改築増築が繰り返され、複雑な構造となっており、詳細はまだわかっていません。

<洗礼者聖ヨハネ聖堂>は宮殿付属礼拝堂として、またフリウリ公国の貴族の墓所としての役割を任っていました。830年の古文書によると、アクィレイア総主教の認証を得て、ベネディクト会が聖堂を管理したとありますが、民間伝承では、ロンゴバルド王国のラティス(Ratchis)王の王妃タッシャ(Tassia)もしくは、次の王のアストゥルフ(Astulf)の王妃ジゼルトルーデ(Giseltrude)が、8世紀半ばに王族の寡婦や貴族の子女の拠り所として女子修道会を設立し、運

営を行なわせたとしています。  

15世紀に女子修道院長マルガレータの時代にそれまで単廊式でアプシスもなかった聖堂が拡張されています。また1511年に地震で崩壊した鐘楼は、17世紀に聖堂の改築と共に再建され、18世紀には正面の柱廊が整えられましたが、1976年の地震で損害を受け、現在の構造に改修されています。

ナポレオンによる占領下では弾圧を受けましたが、現在は市により保護されています。

 

中央祭壇にはジョヴァーネ(Palma il Giovane1608年作の「キリストの磔刑と福者ボイアニと聖ウルズラ」(Crocifisso la tra Beata Benvenuta Boiani e Sant’Orsola con le compagne)が飾られています。

<ロンゴバルドの小神殿>は神殿と呼ばれていますが、聖堂の形をとっています。洗礼者聖ヨハネ聖堂の奥に在り、現在では南側面から直接内陣に入ることになります。

本来の入口である西側から見ると、小神殿は縦方向に幅は同じで、高さの異なる二つの建物が合体した構造になっています。手前の6メーター四方の部屋の両脇には、彫刻が施された木製の聖歌隊席が向かい合って並び、身廊の中央には石造の聖書を置く台が在ります。天井までは10メーターほどあります。奥に、3メーターほどの奥行きのある内陣が在り、中央主祭壇の上には受胎告知が描かれています。内陣は四本のコリント式柱頭飾りの有る円柱で蒲鉾型天井を支え、天井の中央にはフレスコ画でマンドルラのキリストが描かれ、東方三王の礼拝と、聖母・マグダラのマリア・聖人達、が左右に描かれています。天井の高さは6メーターほどです。

入口の上には豊穣を意味する葡萄の蔦と実の繊細な作りのストゥッコが半円形を描く中に、両脇に大天使ミカエルと大天使ガブリエルを従えたキリストの半身像がフレスコ画で描かれています。

 

その上層には、アーチ型の窓が在り、左右に三人ずつ女性の殉教者立像が並んでいます。窓の両隣りの二人は長衣を着て中央を向き、オラントの姿勢で両手を掲げています。その後ろに立つ二人は殉教者の印である十字架と円冠を持って正面を向いており、動きは感じられません。

聖女は等身大より背が高く、均整のとれた体形をしています。裾に真珠を縫い込んだ衣や見事な刺繍を施した量感のある服装を着て、頭には冠をかぶっており、ビザンティン帝国の貴族のような出で立ちです。聖女像は白漆喰で作られており、殉教者は純白の衣を着ているように見えます。左右対称で、同じような姿勢ですが、その面立ちは一人ひとりが異なり、個性が感じられます。

左右の壁には8世紀のビザンティン様式の影響を受けた、聖アドリアヌスや聖書を基にしたフレスコ画が残っていますが、かなり剥離が進んでいます。

 なお、2017年現在、聖歌隊席は小神殿内から離され、洗礼者聖ヨハネ聖堂の中で修復作業をしており、その模様を見ることができます。

 

Duomo  (Santa Maria Assunta)大聖堂   (サンタマリア・アッスンタ)

街の中心部に在り、大聖堂の前には広場が在りますので、聖堂全体を見渡すことができます。

現在の大聖堂は、当初からあった聖堂を1457年に新たに建設し、16世紀初めに一旦完成しましたが、直ぐに改修が始まり1529年に完成しています。更に、17世紀、18世紀に改修を重ねてきています。

正面には扉口が三箇所有り、両脇の扉口の上には丸窓が見えていますが、石が壁のように高く積み上がっており、人を寄せ付けない砦のように感じさせます。右側の鐘楼も頑丈な方形で背が高く、二層に狭間のような細い窓しかありません。大幅に改修されていることが判ります。

聖堂内は三廊式で、内陣から数段上がった中央主祭壇には金鍍金した銀板に浮彫彫刻を施した祭壇板が置かれています。三連アーチの中央には聖母子が正面を向いて玉座に座し、両脇に大天使ガブリエルと大天使ミカエルが矜持しています。その外側は三段に分かれて聖十二使徒と聖人が小さく立像で彫られ、周囲を24人の聖職者の胸像が囲んでいる大きな立派な祭壇板です。

この祭壇板はペレグリーノ2世の祭壇板(Pala di Pellegrino II)と呼ばれていますが、ペレグリーノ2世はチヴィダーレ・デル・フリウリ生まれの貴族で、1195年にアクィレイアの総主教になった人物です。

右側壁の最初には洗礼盤が置かれています。次いで、聖母子、ジョヴァンニ(Giovanni da Udine1536年作の受胎告知、キリストの磔刑の絵が掲げられ、内陣の右脇には大きなオルガンが在り、左脇にはキリストの磔刑像が在ります。左奥の祭壇は聖三位一体礼拝堂で、右壁にパルマ(Palma il Giovane1606年作の最後の晩餐があります。

左側壁には聖ステファノの殉教、聖十字架、聖ロッコと聖ジョゼッペと聖セバンスチャン等16世紀から17世紀初めの作品が掲げられています。

大聖堂に隣接して、大聖堂付属博物館 (Museo Cristiano)があります。

大聖堂を一旦出て、外側から入ります。  

この博物館で重要な展示品は二つあります。

一つは、8世紀半ばに作成されたラキス公の祭壇(Altare del Duca Ratchis)で石に浅浮彫彫刻が施されています。横1.44メーター・縦0.9メーター・奥行0.88メーターの大きさがあります。

後にロンゴバルド王となる、フリウリ公ラキス(Duca Rachis)が父親のペンモ(Duca Pemmo)に捧げた祭壇なので、通称ペンモの祭壇と呼ばれています。

正面のマンドルラの中には正面を向いて座す荘厳のキリストと両側に熾天使(Seraphim)が浮き彫りにされています。四体の天使がそのマンドルラを捧げ持っています。

この祭壇の側面には「東方三王の礼拝」と「ご訪問」が彫られています。

二つ目は8世紀に制作された八角形の大型の洗礼盤(Battistero Ottagonale di Callisto) です。

洗礼盤の周囲には聖マタイ・聖マルコ・聖ルカ・聖ヨハネの福音書記者の表象である、人・ライオン・牛・鷲が浮き彫りにされています。

八角形の洗礼盤の各隅には八本の柱頭飾りの付いた円柱がアーチ型で結ばれています。載石部分には空想上の動物や怪獣の浅浮彫彫刻が施されています。

 

この他に、聖ドナート(San Donato)の聖遺物容器などが展示されています。

San Francesco   聖フランチェスコ聖堂

ドゥオーモからナティゾーネ川に向かってアクィレイア(Corso Paolino d’Aquileia)通りを進み、橋の手前で右折して細いステリーニ(Stretta J. Stellini)通りを進むと左手に見えて来ます。

1285年に建設された市内でも古い聖堂で、前には広場があります。正面は扉口が一つでその上に大きな丸窓が在るだけの飾りのない聖堂で、20世紀になって改修されています。ゴティック様式の単廊式の聖堂です。

 

なお、聖堂右面の外側から奥の建物まで回廊が続いていますが、現在では聖堂としての役割は果たしていないように見受けられます。

San Martino     聖マルティーノ聖堂

ドゥオーモからナティゾーネ川に向かって進み、悪魔の橋(Ponte del Diavolo)を渡り、旧市内を出たすぐ左側の一段奥まった場所に在ります。小さな聖堂で、13世紀に建設されていた聖堂を17世紀、18世紀に改築しています。右側には聖堂には似合わない大きさの鐘楼が在ります。

 

聖堂内は単廊式です。

San Pietro ai Volti    聖ピエトロ聖堂

駅からアブルッツィ通り(Via duca degli Abruzzi)を南下してボルゴ・サンピエトロ通り(Via Bolgo San Pietro )に左折すると左側に出てきます。その奥にヴェネト門(Porta Arsenal Veneto)が見えています。この門の中が城壁に囲まれた旧市内です。

二層造りの小さな聖堂で、屋上には二体の天使の立像が在り、右手には鐘楼が在ります。16世紀末に建設された新しい聖堂で、元は救世主聖堂(Ss. Redentore)と呼ばれていました。

 

聖堂内は単廊式で、「救世主と聖セバスチャンと聖ロッコ」(Redentore e Santi Sebastiano e Rocco)は、しばらくこの地に住んだパルマ(Palma il Giovane)の作品で、1607年制作とされています。フレスコ画で描かれた、ピエタと聖フランチェスコと聖アントニオは15世紀の作と言われます。

San Pietro e San Biagio     聖ピエトロと聖ビアージョ聖堂

ドゥオーモ広場から、国立考古学博物館の裏手をマッジョーレ通り(Via Monastero Maggiore)に進み、坂道を下って、建屋の下を通り抜けるとトッレ通り(Via Dalla Torre)に出ます。ナティゾーネ川に沿って進むと左側に見えて来ます。

13世紀から存在していた聖堂を15世紀に改築したもので、聖堂の正面には尖塔型ア-チ型の扉口が一箇所有り、周囲は1505年頃に描かれたフレスコ画で埋め尽くされています。

切妻屋根の下にはキリストが、扉口の上には聖ピエトロと聖ビアージョが向き合って立ち、右側には大きく聖クリストフォロが描かれ、左側の上には聖職者と奉納者の女性たちが、その下には聖ジョルジョが描かれています。なお、これらのフレスコ画は聖堂の外壁に描かれていますので、色彩は飛び、風化も進み、一部剝落しています。聖堂の右側には鐘楼が在ります。

 

聖堂内は単廊式で、主祭壇には聖ビアージョが正座し、その下には多くの奉納者が描かれた祭壇画が有ります。

Santa Maria dei Battuti     サンタマリア・デイ・バッツゥーチ聖堂

 

ドゥオーモからナティゾーネ川に向かって進み、悪魔の橋(Ponte del Diavolo)を渡り、聖マルティーノ聖堂の前を進むとすぐ左側に在ります。13世紀初旬に建設され、15世紀に再建されています。通りに接していますが、小さな聖堂で見落としてしまいそうです。しかも現在では廃院されており、展示場など催し物会場に利用されており、聖堂としての役割は果たしていません。

Santa Maria di Corte      サンタマリア・ディ・コルテ聖堂

ドゥオーモ広場から国立考古学博物館に向かい、博物館の前を北にパトリアルカート通り(Via Patriarcato)を進むとすぐ右手に見えて来ます。

1286年にロマネスク様式で建設された礼拝堂が嚆矢とされますが、詳細は不明です。

15世紀に建設された切妻屋根の小さな聖堂で、右側に鐘楼が在ります。扉口は一箇所で、上には聖母子像が置かれています。

 

聖堂内は単廊式です。

Santi Silvesto e Valentino   聖シルヴェストと聖ヴァレンティノ聖堂

ドゥオーモの正面から左に、マッツィーニ通り(Corso Giuseppe Mazzini)を北上すると、通りの名前はアルベルト通り(Via Carlo Alberto)と変わりますが、国道54号線に出る手前の右側に在ります。もしくは駅前から国道54号線を東に向かい、アルベルト通りに右折する方がわかり易いかと思います。

 

7世紀に建設された町でも古い聖堂の一つです。13世紀に破壊され、16世紀になって再建されています。17世紀に改修されています。扉口一か所で、両脇の片蓋柱が三角形の破風を支える左右均等の均整の取れた聖堂です。聖堂内は単廊式でバロック様式です。