英国の教会の歴史
1.はじめに
ユリウス・シーザーがロンドンに上陸した後、ローマ帝国はイングランドに侵攻して支配し、120年頃にはハ
ドリアヌス帝がスコットランドとの国境地帯に「長城」を建設して、長らく支配していました。
5世紀の半ばローマ帝国はイングランドから撤退していきます。
当時、ローマ帝国はキリスト教を国教としていました。
代わって支配者となったアングロ・サクソン族は七王国(ヘプターキー)を建設していきます。
北からノーサンブリア、マーシア、イーストアングリア、ケント、エセックス、サセックス、ウェセックスの
七王国です。
七王国時代に、ローマ教皇は最西の異教の地を啓発するために、多くの聖職者を派遣しています。
イングランドも徐々にキリスト教化が進んで来て、627年にはノーサンブリアの王エドウィン(Edwin)が洗礼
を受けた記録が残っています。キリスト教の聖書は現在のフランスに当るゲール(Gaul)の地から商人か、兵
士によってもたらされました。
キリスト教は信仰の対象として受け入れられただけではなく、ローマ帝国を中心とした大陸から、美術品、工
芸品、建築様式、詩歌、音楽を伴って、総合的な文化としてイングランドに伝播してきました。
王公貴族からの支援だけではなく、地元の有力者の支援を得て、各地に立派な聖堂が建設され、修道士により
聖書の豪華な写本が造られていきました。
2.修道院
現代英語の修道院を示すMonasteryは、中世英語ではMonasterieですが、後期ギリシャ語のMonasterionから出ており、語義はAloneで、修道士が洞窟や荒野において一人で修業をすることから始まっています。その後、隠遁生活をしていた修道士が集まり、構成した共同体を示す言葉となりました。また、Minsterは古英語のラテン語形の、Monasteriumから発生しており、Monasteryと同意義です。その修道院はイングランド中部の東側で始まりました。
キリスト教の中でも修道院はその宗派により流儀が異なりますが、イングランドに初めにやって来たのは、アングロ・サクソン時代のベネディクト派の修道士でした。クリニュー派はノルマンコンケスト以降の1070年頃に伝播してきています。バーンステイブル(Barnstaple)での修道院が最初で、ルイス(Lewes)が最大でした。シトー派は1129年にウェイヴァリー(Waverley)に建設されたのが最初で、不毛の地に多く創建されています。ファウンテンズ(Fountains)やリーヴォー(Rievaulx)等に巨大な廃墟が見られます。カルトジオ派はイングランドでは少数派に属し、ウィザム(Witham)が最初で10か所ほどしか有りません。
1150年までに500の修道院が出来たと言われていますが、ベネディクト派が最大です。
3.ローマに巡礼の旅に出かけた修道士
628年にノーサンブリア(Northumbria)の貴族の家系に生まれた、ビスコープ(Biscop Baducing)はノーサンブリアの王オスウィー(Oswy)に仕えていましたが、25歳になった時に啓示を受けて、真の王に仕えるとして、キリスト教徒になっています。653年、25歳のときに、1回目のローマに巡礼に出掛けています。665年には2回目のローマ訪問を行い、ウィタリアヌス(Vitalianus)教皇(教皇としての在位:657-672年)に面会しています。さらにその2年後の667年には3回目の訪問を行っています。その際にローマからは聖職者テオドロ(Theodore)に同行してイングランドに戻って来ています。また多くの書籍と聖遺物を購入して来ています。
671年に4回目を実行しています。多くの書籍や聖遺物をイングランドにもたらしています。イングランドに帰国した後、当時のノーサンブリア王、エクグリス(Ecgfrith)より、ウェア(Wear) 川の川岸に土地を下賜され、3年後の674年にウェアマウス(Wearmouth)に聖ピーターに奉献して修道院を建設しました。
当時イングランドでは聖堂を飾るステンドグラスを製造することが出来ず、ゲール(Gaul)から職人を呼んできてイングランドに技術を伝えさせたと言われています。
その後5回目のローマ訪問を行い、アガソス(Agathos)教皇 (教皇としての在位:678-681年)に面会しています。教皇の許可を得て、多くの書籍と共に聖歌士を伴い680年にウェアマウスに戻っています。出来上がった聖ピーター聖堂の祭壇に掲げる「聖母と聖使徒と聖ヨハネ」の絵を持ち帰ったとされています。文字が読めない人を導くために、複数の絵画を持ち帰り、聖堂の壁に飾って、絵を通して神に近づくことを導いたと言われています。
なお、エクグリス王からウェアマウスの近くのジャロウ(Jarrow)に土地を下賜され、今度は聖ポールに奉献して681年に修道院が建設されました。ジャロウ修道院の最初の修道院長はケオルフルス(Ceolfrith)でした。
ウェアマウス修道院の修道院長となっていたビスコープ(Benedict Biscop)に助修士として預けられた少年のなかに8歳のベーダ(Bede)が居たと言われています。
685年には最後となる6回目のローマ巡礼に出掛けています。翌年686年にいつものように大量の書籍を持って戻り、新たに王に就任していたアルドフリス(Aldfrith)王から歓待を受けています。
689年1月12日に61年の生涯を閉じています。
なお、ベーダの名著、「イングランド教会史」はビスコープ修道院長の持ち帰った書籍と、その後ケオルフルスにより補充された史料に基づいていると言われています。
4. アングロ・サクソン時代からノルマンコンケストへの移行
アングロ・サクソン時代に、デーン人がイングランドを襲撃していた頃、修道院は豊かな富が集積された場所として、その襲撃の目標とされていました。多くの修道院が襲われ、掠奪され、焼失しています。1016年にククヌート(Cnut)王がイングランドを統一した時代になっても、収奪の対象とされ、多くの修道院は荒廃しました。
その後エドワード(Edward)証聖王の時代になると、キリスト教を積極的に支援したことで、修道院は回復しています。なお、エドワード証聖王により、1044年にロバート(Robert)がロンドンの修道院長に、ウルフ(Ulf)をドチェスター(Dorchester)の司教に、1051年にはロバートをカンタベリーの修道院長に、ウィリアム(William)がロンドンの修道院長に就任しています。
コラらの聖職者はすべてノルマンから連れて来たノルマン人でした。その他、ウェルズ(Wells)のジャイソ(Giso)、ヘレフォード(Hereford)のウォルター(Walter)もノルマン人でした。ノルマンコンケストの前からキリスト教の世界ではノルマン人が入りこんでいたのです。
1066年のノルマンコンケスト以降も、ウースター(Worcester)のウルフスタン(Wulfstan)やエヴァシャム(Evesham)のエセルウィグ(Aethelwig)などはアングロ・サクソンの修道院長でしたが、ヨーク(York)やウィンチェスター(Winchester)などで修道院長が空席になっていた修道院は順次ノルマン人が就任することで、大きな混乱も無く、ノルマン人が修道院を支配するようになって行きました。
5.ノルマンコンケスト以降の建築様式の区分け
アングロ・サクソン時代に建設された聖堂は多く有りましたが、小規模なものが多く、造りも木造が多かったために、デーン人の襲撃により、焼失・再建を繰り返していました。アングロ・サクソン時代から続く名の有る大聖堂は有りますが、そのほとんどはノルマンコンケスト以降に改築・増築・修復させられ、当時の建物が残っている聖堂はほとんど見られません。
ノルマンコンケスト以降、1150年頃までを一区切りとして、ノルマン様式、若しくはロマネスク様式(Norman or Romanesque)の聖堂と呼びます。半円アーチ(round-arch)や尖頭アーチ(Pointed arch)が特徴で、大聖堂の例としてはダーラム(Durham)が挙げられます。
次いでゴティック様式の聖堂が建設されて行きますが、1150年頃から1270年頃までを、ゴティック様式の中で、初期イイングランド様式(Early English)と呼びます。例としては、ウェルズ(Wells)やソールズベリー(Salisbury)が挙げられます。
更に1270年頃から1370年頃までを、装飾(Decorated)様式と呼び、例として、ヨーク(York Minster)やエクセター(Exeter)、イーリー(Ely)が挙げられます。
最後のゴティック様式として、1370年頃から1650年頃までを垂直(Perpendicular)様式と呼んでいます。例としては、グロウスター(Gloucester)や、ケンブリッジのキングズカレッジ礼拝堂(Cambridge Chapel of King’s College)が挙げられます。
現在に残る大聖堂は、頑丈な石造りで、長い身廊、天を突く尖塔が偉容を誇り、そのほとんどがゴティックク様式で建設されていることが判ります。
6.イングランドの教区の変化
イングランドのキリスト教化が進むと、キリスト教の教区が出来上がって来ますが、アングロ-サクソン時代の750年頃、北から、リンディスファーン(LINDISFARNE)、 ウァイトフォーン(WHITEHORN)、ヘキサム(HEXHAM)、ヨーク(YORK)、 リッチフィールド(LICHFIELD)、リンゼイ(LINDSEY)、レスター(LEICESTER)、エルマム(ELMHAM)、ダニッチ(DUNWICH)、ロンドン(LONDON)、ヘレフォード(HEREFORD)、ウースター(WORCESTER)、 ウィンチェスター(WINCHESTER)、シャボーン(SHERBORNE)、セルセイ(SELSEY)、ロチェスター(ROCHESTER)、カンタベリー(CANTERBURY)の計17教区に決められています。
なお、200年後の950年頃にはデーン人の襲来やそれに伴う人口の変化から一部教区の変更が行われています。
北から、チェスタールストリート(CHESTER-LE-STREET:現在のDurham)、ヨーク(YORK)、リンゼイ(LINDEY)、リッチフィールド(LICHFIELD)、エルマム(ELMHAM)、ドチェスター(DORCHESTER)、 ロンドン(LONDON)、ヘレフォード(HEREFORD)、ウースター(WORCESTER)、ラムズベリー(RAMSBURY)、セントグレマンズ(ST.GREMANS)、クレディトン(CREDITON)、ウェルズ(WELLS)、 シャボーン(SHERBORNE)、ウィンチェスター(WINCHESTER)、セルセイ(SELSEY)、ロチェスター(ROCHESTER)、カンタベリー(CANTERBURY)の計18教区になっています。
更に、200年後のノルマンコンケスト時代、1090年頃の教区は、北から、ダラム(DURHAM)、ヨーク(YORK)、チェスター(CHESTER)、リンカーン(LINCOLN)、ノリッヂ(NORWICH)、ロンドン(LONDON)、ヘレフォード(HERFORD)、ウースター(WORCESTER)、エクセター(EXETER)、バスとウェルズ(BATH&WELLS)、ソールズベリー(SALISBURY)、ウィンチェスター(WINCHESTER)、チチェスター(CHICHESTER)、ロチェスター(ROCHESTER)、カンタベリー(CANTERBURY)の計15教区に統一されています。
なお、1109年にイーリー(ELY)、1133年にはカーライル(CARLISLE)、が追加され計17教区となっています。
ノルマンコンケストの初期段階で、カンタベリー大司教であったランフランク(Lanfranc)は、イングランドの教区をカンタベリー大聖堂を頂点として統一を図りましたが、グレゴリウス7世教皇の反対も有り、従来通りカンタベリー大聖堂とヨーク大聖堂の二大大聖堂による体制は維持されています。
このように、時代により若干の変化は在りますが、ほとんど変化していないことも判ります。また現在の行政区にも繋がっていることが判ります。
7.教会制度の改革
イングランドの聖堂を訪問する時、大聖堂や都市の内に在る聖堂を訪問しているときには気が付きませんが、ひとたび辺鄙な谷合や丘の上に出掛けると、廃墟となった大きな修道院に出逢うことがあります。
1517年、マルティン・ルッターが95箇条を発表したことから宗教改革が始まりましたが、ヘンリー8世はルッターを非難する書物を著して、ローマ教皇から信仰の擁護者(Defender of the Faith)の称号を与えられています。しかしながら外交上の事情の変化と、自身の離婚問題から、カトリック教会からの分離を断行し、国王がイギリスの教会の首長であることを宣言して、イギリス国教会を成立させます。
更に、ヘンリー8世は寵臣や功労者に与える資金調達の面から、イングランドの全国土の十分の一以上を占めていた修道院領とその財産に標準を定め、1536年に小修道院を、1539年には大修道院を解散させ、財産を没収しています。売却や下賜することで直ぐに国王の手から離れて行きましたが、王室財政に大きく貢献しています。その結果、修道院の建物は破壊され、石材として運び出されたのでした。
8.参考:
現在の大聖堂(北アイルランドを除く)
8-1.イングランド地域
8-1-1イギリス国教会
カンタベリー大聖堂(Canterbury)管区
○Birmingham ○Bristol ○Bury St. Edmond ○Canterbury ○Chelmsford ○Chicester ○Coventry ○Derby ○Ely ○Exeter ○Gibraltar ○Gloucester ○Guildford ○Hereford ○Leicester ○Lichfield ○Lincoln ○London ○Norwich ○Oxford ○Peterborough ○Portsmouth ○Rochester○St. Albans ○Salisbury ○Southwark ○Truro ○Wells ○Winchester ○Worcester
ヨーク大聖堂(York)管区
○Blackburn ○Bradford ○Carlisle ○Chester ○Durham ○Liverpool ○Manchester ○Newcastle ○Peel ○Ripon ○Sheffield ○Southwell Minster ○Walefield ○York Minster
8-1-2.ローマカトリック
ウェストミンスター(Westminster)管区
○Brentwood ○Norwich ○Northampton ○Notthingham ○Westminster
バーミンガム(Birmingham)管区
○Birmingham ○Clifton ○Shrewsbury
リヴァプール(Liverpool)管区
○Lancaster ○Leeds ○Liverpool ○Middlesbrough ○Newcastle ○Salford ○Sheffield
サザック(Southwark)管区
○Arundel ○Plymouth ○Portsmouth ○Southwark
8-2.ウェールズ地区
8-2-1 イギリス国教会
○Bangor ○Brecon ○Llandaff ○Newport ○St. Asaph ○St. David’s
8-2-2 ローマカトリック
○Cardiff ○Swansea ○Wrexham
8-3.スコットランド地区
8-3-1.イギリス国教会
○Aberdeen ○Dundee ○Edinburgh ○Glasgow ○Inverness ○Millport ○Oban ○Perth
8-3-2.ローマカトリック
セントアンドリュースとエディンバラ(St. Andrews and Edinburgh)管区
○Aberdeen ○Ayr ○Dundee ○Edinburgh ○Oban
グラスゴウ(Glasgow)管区
○Glasgow ○Motherwell ○Paisley
9.参考:
アングロ・サクソン時代の最後の時代に、ベネディクト派の修道院の在った場所
Monastries(男子修道院)
Bodmin, Tavistock, Buckfast, Abbotsbury, Cerne, Sherborne, Athelney, Burton, Glastonbury, Muchelney, Horton, Cranborne, Malmesbury, Bath, Wilton, Deerhurst, Whinchester, New Minster, Whinchester Priory, Abington, Eynsham, Winchcombe,
St.Albans, Chertsey, Lewisham, Westminster, Minster, Cathedral Priory, St. Augustines, Gloucester, Tewkesbury, Evesham, Pershore, Worcester, Leominster, Coventry, Polethworth, Burton, Peakirk, Peterborough, Ramsey, St. Neots, St. Ives, Ely, Bury, Rumburgh, Thetford, St.Benet, Thorney, Crowland, Spalding, Stow, Alkborough, Coquet Is. 54箇所。
Nunneries(女子修道院)
Shaftesbury, Romsey, Wilton, Amesbury, Wherwell, Winchester Nun’s Minster, Barking, Chatteris 9箇所。
10.参考文献
David Knowles & R. Neville Hadcock, Medieval Religious Houses, Longman, 1971.
John Blair, The Church in Anglo-Saxson Society, Oxford, 2005.
John Godfrey, The Church in Anglo-Saxon England, Cambridge,1962.
John Harvey, Cathedrals of England and Wales, Batsford, 1974.
John R. H. Moorman, A History of the Church in England, Adam, 1953.
Patrick Wormald, The time of Bede,Blackwell, 2006.
Philip A. Crowl, The Intelligent Traveller’s Guide to Historic Britain, Sidgwick,1983.
Thomas Maude, Guided by a stone mason, I.B. Tauras, 1997.
Bede’s Ecclesiastical History of the English Nation, Everyman, 1958.