マントヴァ Mantova

ロンバルディア州南東部にあるマントヴァ県の県都である。
マントヴァは三方を12世紀に作られた人工湖によって囲まれている。これらはガルダ湖から発したミンチョ川の水をせき止めたものである。
【アクセス】
ミラノから電車で3時間ほど東にある、三方を湖に囲まれた小さな美しい街です。
駅は街の西端にありますので、旧市街には東北に向かうことになります。運河の北側の旧市街に主な宮殿や聖堂が集中していますので、街の主要な見どころは歩いて見て回れます。車で訪問した場合にも、街中にも駐車場は完備していますので、比較的楽に駐車することができます。
中心地の道は狭く直線ではないので、地図やスマホで確認しながら回ることをお勧めします。
なお、街の南端にある、テ宮殿 (Palazzo Te)まではやや距離がありますので、交通機関を利用すると良いでしょう。
【歴史】
マントヴァの街は古く、ローマ帝国時代より前、紀元前6世紀のエトルリア時代にまで遡ることができます。11世紀にはトスカナ侯領となりましたが、12世紀初頭にマティルダ(Matilda di Canossa)伯の死後、自由都市となっています。
歴史上に華やかに登場するのは14世紀からで、18世紀までの長きに渡り、ゴンザーガ(Gonzaga)家と共に北方ルネサンスの中心地として、芸術の街として繁栄しました。
特に1557年からグリエルモ公(Guglielmo Gonzaga)が自治を開始して、神聖ローマ帝国皇帝のフェルディナンド1世(Ferdinand I)の娘のエレノラ(Eleonora)との結婚が転機となっています。
街にはドゥッカーレ宮殿(Palazzo Ducale)を始め、夏の離宮であるテ宮殿(Palazzo Te)の他、ゴンザーガ家に関連のある聖堂など、見どころが多くあります。
ルネサンス時代を代表するマンテーニャ(Andrea Mantegna)、アルベルティ(Leon Battista Alberti)などの有名な画家の描いた絵画のほかに、ロマーノ(Giulio Romano)などの高名な建築家も建設物を競っていました。
マントヴァの街がこのように多くの芸術家が腕を競い合った背景にはフェッラーラ(Ferrara)から嫁いできたイザベラ(Isabella d'Este)の芸術振興に掛けた熱い思いがあったのです。
このように古代の遺跡、中世の建築、近世の絵画など、歴史上の宝物が多くあり、国内外から多くの観光客が訪れるのは勿論のこと、国内の学生が研修旅行として訪れている街なのです。
【宿】
宿は修道院を改装したホテルが駅を出たところにあります。中心部には高級ホテルがありますが、数が少ないので、早めの予約が必要でしょう。
【その他の情報】
マントヴァ在住の方の情報「マントヴァへようこそ」おいしい食べ物情報なども掲載されています。
→https://yukoyanagi.wixsite.com/welcomemantova
1. Duomo ドゥオーモ 大聖堂 (Cattedrale di San Pietro Apostolo)

広いソルデッロ広場(Piazza Sordello)に面して建っており、対面にはドゥッカーレ宮殿(Palazzo Ducale)があります。
ロマネスク様式で建設されたサンピエトロ聖堂が14世紀末にゴンザーガ4世(Francesco Gonzaga IV)の時代に大聖堂に改修されました。当初の遺構は鐘楼の一部などに見ることができます。

その後パオロ(Pier Paolo)兄弟により建物の右側部分がゴティック様式で拡張されました。更に18世紀にはバシエラ(Nicolo Baschiera)により正面をカッラーラ(Carrara)大理石で修復しています。
屋根の頂点に十字架が、その脇には2人ずつ聖者の立像が飾られています。
2. Sant'Andrea 聖アンドレア聖堂

街の中心にあるエルベ (Piazza delle Erbe)広場に面して、高い鐘楼を持つ非常に大きな聖堂です。
1472年、ルドヴィコ2世(Ludoviko II Gonzaga)がアルベルティ(Leon Battista Alberti)に聖堂建設を命じましたが、アルベルティが逝去したことにより、当時メディチ家のお抱え建設士であった、ファンチェッリ(Luca Fancelli)に要請をしました。ファンチェッリは聖堂の正面と前の部分を20年かけて建設したものの、聖堂が完成したのは、それから200年後のことでした。

巨大なドームは1782年にユバラ(Filippo Juvara)により完成しています。
正面中央の大きな入口の両脇は三層に分けられ、二本の太い片蓋柱が高く伸びて縦に三分割し、左右対称となった構造は古代ローマの凱旋門を思わせる構造となっています。

ティンパヌムの上部の半円筒形の穹窿は正面の構造とは別物であり、内部の奥まで光を取り込むための窓覆いとなっています。
聖堂脇には広いエルベ広場がありますが、正面の広場が小さいことを配慮した結果とみなされます。

太くて高い列柱は全面が浮彫で飾られているかのように見えますが、実際は浮彫ではなく平面に浮彫が施されたような細かな模様が描かれています。
地下礼拝堂には聖遺物として、キリストの聖血が保管されています。
なお、トレント (Trento)にある、サンタマリア・マッジョーレ聖堂(Santa Maria Maggiore)はこの聖アンドレア聖堂を模して建設されました。
3. Basilica palatina di Santa Barbara 聖バルバラ聖堂

ゴンザーガ(Gonzaga)家の宮殿であるドゥッカーレ(Palazzo Ducale)宮殿は、宮殿と城(Castle Giorgio)と聖バルバラ聖堂からなっています。
ドゥッカーレ宮殿の前にあるソルデッロ広場(Piazza Sordello)からドゥッカーレ宮殿に沿ってメッツオ湖(Lago di Mezzo)に向かい、建物の間から広い中庭に入りこむと、そこに城と聖堂が見えてきます。

グリエルモ公(Guglielmo Gonzaga)の妃のエレノラ (Eleonora)は、自身が建設した聖三位聖堂 (Santa Trinita)に埋葬されています。
2012年5月29日にエミリアで起きた強い地震により、大聖堂の鐘楼のドームが損傷しました。
4. San Barnaba 聖バルナバ聖堂

街の南側を東西に走るロマーノ通り(Via G.Romano)がポーマ通り(Via C. Poma)と名前を変え、キアッシ通り(Via Chiassi)と交差する所にあり、通りの反対側には裁判所があります。ポーマ通りもキアッシ通りも道幅は広いのですが、なかなか遠くから見渡すのができにくい場所にあります。
背の高いアプシス側から見上げると高いドームと相まって威厳のある聖堂ですが、正面に回ると聖堂の前の狭い広場には小さな天使の石像がぽつんと立っており、ほほえましさを感じさせます。

最初はミラノの守護聖人バルナバス(Barnabas)に奉献して建設されましたが、14世紀末にフランシスコ会の聖母マリア修道尼院となっています。
聖堂内には16世紀のマガンザ(Alessandoro Maganza)作の「カナの結婚」を始めとして、多くの絵画が飾られています。
5. San Francesco 聖フランチェスコ聖堂

マントヴァの駅からソルフェリノ通り(Via Solferino)を旧市街に向かって北上しますと、聖フランチェスコ聖堂の偉景が目に飛び込んできます。
第2次世界大戦で破壊され、再建されましたが、外観は14世紀のゴティック様式を良くとどめています。正面には薔薇窓を擁し、鐘楼が脇立する大きな聖堂です。
6. Rotonda di San Lorenzo 聖ロレンツオ聖堂

街の中心にあるエルベ広場(Piazza delle Elbe)に面し、聖アンドレア聖堂(Sant'Andrea)の対面にある、円形のロマネスク様式の小さな聖堂です。
"Rotonda"は円形の建物を言います。
ロンバルド帯のレンガで建設され、街で一番古い聖堂です。この聖堂はエルサレムの聖墳墓教会を模して11世紀に、マティルダ伯 (Matilda di Canossa)の命により建設されました。
このマティルダ伯は、1077年の歴史上の一大イベントであった神聖ローマ帝国皇帝のハインリッヒ4世と法王グレゴリウス7世の、『カノッサの屈辱』の執成しとして高名な女伯です。

1579年には廃墟となりましたが、20世紀になってドミニコ派により修復されています。
入口は現在の地面から一段下がった所にありますが、これは川の氾濫などで埋まっていた聖堂を当時の高さにまで掘り起こした結果です。

このような円形の聖堂が遺構として現在までその姿を見せている数は多くはありません。
近くにはブレシア(Brescia)の旧大聖堂(Duomo Vecchio)があります。また、ローマには、コロッセオ (Colosseo)の南東にある聖ステファノ・ロトンド聖堂(Santo Stefano Rotondo)や、城壁外の北東に離れてある聖コスタンツァ霊廟 (Mausoleo di Santa Costanza)など、限られています。
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7. San Sebastiano 聖セバスティアーノ聖堂

旧市街から外れて南下し、テ宮殿(Palazzo Te)の近くにあります。5月24日広場(Piazza XXIV Maggio)に面し、対面にはマンテーニャの家(Casa del Mantegna)があります。

ギリシャ十字式の斬新な教会として1459年にアルベルティ(Leon Battista Alberti)により設計されました。
アルベルティはその著書『建築論』で、建築に重要な装飾は円柱である、としていますが、アルベルティの死後ファンチェッリ(Luca Fancelli)により大規模に変更されたため、この聖堂では採用されていません。

正面はルネサンス時代の古代復興の精神を反映してか、ギリシャ神殿を思わせるものがあります。
ただし、正面の両脇に見える、均衡を欠いた大きな階段は20世紀なって、戦死者を弔う記念聖堂となった際に追加されたもので、アルベルティの設計にはありませんでした。