リミニ Rimini

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Rimini_アウグスト帝の凱旋門 (Arco di Augusto)
Rimini_アウグスト帝の凱旋門 (Arco di Augusto)

 リミニ (Rimini)は、エミリア・ロマーニャ州リミニ県の県都である。アドリア海に面し、沿岸海運と漁業を伝統としている。

 

 

歴 史

 紀元前6世紀ころ王制ローマから共和制に変わったローマはエトルリア人()を圧迫し、都市国家を統合して北方に勢力を拡大していきました。

 

 :世界史の窓 (https://www.y-history.net/)より「エトルリア人」(https://www.y-history.net/appendix/wh0103-004.html)

 

 しかし、紀元前4世紀ころは北方民族のケルト人がローマに侵攻してくるなど、紛争は絶えませんでした。

 

 この北からの守りを堅固にする必要からアペニン山脈を越えてアドリア海に到達し、堡塁地として建設したのがリミニの町です。紀元前268年に建設された歴史を持つ古い町です。

 

 更に、紀元前220年にはローマのポポロ広場から北東に向かいアドリア海に至るまで、リミニの町に向けて街道が建設されていきます。それが最重要な街道の一つである、フラミニア街道 (Via Flaminia )です。リミニはその終着点でした。

 

 一方で、北西のポー川流域に展開したローマの勢力は紀元前218年にピアチェンツァ (Piacenza)を建設し、ポー川に沿って東西に延びる重要な街道のエミリア街道 (Via Emilia )を紀元前187年に建設しています。この街道の終着点のアドリア海の町がリミニです。

 

 このようにリミニは街道の起点として需要な役割を果たして来ました。

 

 なお、ローマから南に向かうアッピア街道は早くも、紀元前312年に建設が開始されていますので、北方の開拓に時間がかかったことがうかがえます。

 

 ローマ帝国が滅亡した後はゴート族による支配、東ローマ帝国のラヴェンナ総督による支配、ロンゴバルド王による支配、フランク王からローマ法王への寄進、など多くの支配者がリミニを征服しています。

 

 13世紀半ばから16世紀の半ばまでの300年間は傭兵隊長として活躍したマラテスタ家 (Malatesta)が支配しています。1378年、西のチェゼーナ (Cesena)の町も支配下に入れていましたが、15世紀末にチェザーレ・ボルジア (Cesare Borgia)に簒奪されています。 → チェゼーナ (Cesena)の項を参照ください。

 

 16世紀以降も町をめぐる攻防が続きますが、ローマ法王領として開運業や漁業が盛んな町として存続してきています。17世紀初めのパウルス5世法王の石像が町のもう一つの中心であるカブール広場の中央にあります。

 

 

Rimini_カブール広場 (Piazza Cavour)の劇場 (Teatro Amintore Galli)とパウルス5世法王とピーニャの泉 (Fontana della Pigna)
Rimini_カブール広場 (Piazza Cavour)の劇場 (Teatro Amintore Galli)とパウルス5世法王とピーニャの泉 (Fontana della Pigna)

町に残る遺跡

 リミニの町にはローマ時代の遺跡が多く残っています。駅の東南には円形競技場 (Anfiteatro)が、町の東側には紀元前27年にフラミニア街道のローマからの到達点として建設されたアウグスト帝の凱旋門 (Arco di Augusto)が、西には紀元20年に掛けられたチベリウスの橋 (Ponte di Tiberio)が見られます。

 また町の中心にある殉教者広場 (Piazza Tre Martiri)の隅にはシーザーの銅像が見られます。

 

観 光

 現在ではアドリア海に面して長い砂浜が続き、「サンマリノ」への玄関口であるとともに、避暑地・避寒地として多くの観光客が訪れ「イタリアのマイアミ」とも言われます。

 

 町には数多くのホテルがあり、長期間滞在できる環境も整っているようです。また、長い歴史を持つ町として、歴史的建設物などを見て回るのはもちろん、近隣のラヴェンナ (Ravenna)やサンマリノ共和国への入口としての役割も果たしており、各地への交通の便も良いので、数日滞在することをお勧めします。

 

Rimini_殉教者広場 (Piazza Tre Martiri)
Rimini_殉教者広場 (Piazza Tre Martiri)

その他情報

 リミニやその周辺では「ピアディーナ」というタコスのような料理が有名。

 

 ラヴェンナとリミニの間に賽は投げられた (alea iacta est, アーレア・ヤクタ・エスト)で有名な「ルビコン川」と言われる川がありますが、Wikipedia「ルビコン川」によると、「外国からの訪問客にルビコン川の位置を訊かれても答えられない」ことを憂慮したムッソリーニが1933年に名付けたらしく、なんとも怪しいですね。

 

 

 

観光情報はこちら

  「イタリアふれあい街歩き」「エミリア・ロマーニャ」→「リミニ県」→「PDFファイル:リミニ←(リンク先は「PDFファイル」なので、右クリックして「名前を付けてリンク先を保存」を選択しダウンロード後、PDFリーダー(Acrobat Reader等)で好みのサイズにして読むのが良いでしょう。

 

1. Duomo (Santa Colomba) 大聖堂 (Tempio Malatestiano)

 

 リミニ駅の観光案内所前から南に向かうダンテ・アリギエーリ通り (Via Dante Alighieri)を進み、途中で名前が11月4日通り (Via Ⅳ Novembre)に変わったところから200mほど進むと左手にあります。

 

 そのまま150mほど進むと、右側に町の中心の殉教者広場 (Piazza Tre Martiri)があります。 

 

 

 13世紀にフランシスコ派の聖堂として建設されましたが、15世紀に町の支配者だったシギスモンド (Sigismondo Pandolfo Malatesta)が自身と妻の菩提寺とすべく、ルネサンスの万能者であるアルベルティ (Leon Battista Alberti)に依頼して改築させています。

 

 そのために現在でも大聖堂とは呼ばれずに、マラテスタの霊廟 (Tempio Malatestiano)と呼ばれています。

 

 聖堂正面の一つの扉口の上には切妻屋根が載り、その全体をドーム型が覆っています。両脇にはコリント式柱頭飾りのある半円柱が大きな切妻屋根を支える形をしています。

 

 しかし、切妻屋根の中央部が繋がっておらず、未完成のままになっています。

 

 

 

 聖堂の右側の外側には七連のアーチが連なり、柱廊の形態をしていますが、その間に石棺が並んでいます。

 

 

 

 聖堂内は単廊式で、主祭壇奥のアプシスにはジョット (Giotto)作のキリストの磔刑の板絵が収められています。

 

 フィレンツェのサンタマリア・ノヴェッラ聖堂にあるジョットの作品と比較すると、構図は同様ですが、キリストの体に現れる重力のかかり方に差異が認められます。

 

 この聖堂の作品はフィレンツェの作品よりも後に描かれたもので、キリストの体の屈折具合がすくないことから上昇感が見られます。描き方が徐々に変化してきていることが明確に分かります。

 

 背の高い大きな聖堂で、両壁の礼拝堂は石造りの柵で隔てられています。

 

 

 

 通常の聖堂とは異なり、宗教関連の絵画が掛けられているわけではなく、内には石棺が置かれています。正に霊廟です。

 

 なお、19世紀の一時期には聖アゴスティノ聖堂 (San Giovanni Evangelista)に司教座が移されています。

 

 

2. Santa Croce サンタクローチェ聖堂

 

 町の中心にある殉教者広場 (Piazza Tre Martiri)からアウグスト通り (Corso d'Augusto)で南東に向かい、アレッサンドロ・セルピエリ通り (Via Alessandro Serpieri)に左折して北に向かうと右側にあります。

 

 通りをそのまま100mほど進むと、ドゥオーモ (Tempio Malatestiano)の後陣に突き当たります。

 

 

 

 切妻式の屋根で、一つの扉口の上には十字架像が収められた石板があるだけです。

 気付かずに通り過ぎてしまうほどの小さな聖堂です。

 

 

Chiesa di Santa Croce nuova, Rimini (interno) (Wikimedia Commonsより)
Chiesa di Santa Croce nuova, Rimini (interno) (Wikimedia Commonsより)

 

内部の写真 (Wikimedia Commonsより)

 

3. Sant'Agostino 聖アゴスティノ聖堂 (San Giovanni Evangelista)

 

 町の中心にある殉教者広場 (Piazza Tre Martiri)の西端に立つシーザー像 (Statua di Giulio Cesare)からアウグスト通り (Corso d'Augusto)を北西に向かい、二番目のカイローリ通り (Via Cairoli)に左に曲がると、シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ通り (Via Sigismondo Pandorfo Malatesta)との交差点先の左角にあります。

 

 

 1069年に福音書記者ヨハネに奉献して建設されましたが、1247年にベネディクト派により変更されています。

 

 17世紀に改築され、18世紀の末から19世紀の初めにかけて司教座がおかれていた時代がありました。

 

 聖堂の正面は狭い通りに面しており、広場もないので、全体像はよく分かりませんが、ロマネスク・ゴティック様式の背が高くて長い聖堂です。

 

 一か所の扉口の上には福音書記者ヨハネを表彰する鷲の彫像が載っています。

 屋根は切妻式で、ロンゴバルド式のクロスアーチの浮き彫り飾りが見えます。

 

 

 

 右手奥にゴティック様式の鐘楼が建っています。

 

 

 

 聖堂内は単廊式です。

 

 

 

 中央主祭壇の奥のアプシスはフレスコ画で埋められています。中央に聖母子、上にキリストと洗礼者聖ヨハネと福音書記者ヨハネが描かれています。

 

 

 

 両側壁に三か所の礼拝堂があり、右側壁の最初には旧大聖堂から移送されたキリストの磔刑像がありますが、キリストの両手は十字架上にはなく、下に垂れています。

 

 

 左側壁の三番目にはパルマ・イル・ジョバーネ (Palma il Giovane)17世紀の作品のコピーが置かれています。

 

 その前にはスカリオラ(Scagliola)で描かれた祭壇がおかれています。

 

スカリオラについては、

カルピ (Carpi)の「スカリオラ」の説明参照

 

 ジョット (Giotto)作のキリストの磔刑の板絵は、現在のドゥオーモ (Tempio Malatestiano)のアプシスで見られますが、そのコピーや、そのほかにも絵画が飾られています。

 

 なお、内装は17世紀にバロック様式で改修されています。

 

 

4. Chiesa Dei Paolotti パオロッティ聖堂 (San Francesco da Paola)

 

 町の中心にある殉教者広場 (Piazza Tre Martiri)の東端の北側に南面して建つ八角形の聖堂です。第二次大戦で破壊された後に再建されています。

 

 コンクリート製で入口の上には丸窓があります。

 

 聖堂内には二面にオルガンが設置されています。正式名は聖フランチェスコ・ダ・パオラですが、パオロッティと呼ばれています。

Tempietto_di_Sant'Antonio_DB-01 (Wikimedia Commonsより)
Tempietto_di_Sant'Antonio_DB-01 (Wikimedia Commonsより)

 

 なお、この聖堂の前にパドヴァの聖アントニオ聖堂 (Tempietto di Sant'Antonio)がまるで聖堂の門番のように立っています。八角形で洗礼堂のような形態をしています。

 二つの聖堂がこのような形態で並ぶのは非常に稀なことです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 聖アントニオ聖堂 (Tempietto di Sant'Antonio)は、Wikipediaによると、1223年パドヴァ (Padova)の聖アントニウスによる、「聖体の奇跡」を記念して建立 (1518年)されたものとのことです。

 

「リミニの聖体の奇跡」の詳細はこちら↓

https://it.wikipedia.org/wiki/Miracolo_eucaristico_di_Rimini

 イタリア語ですが、「Google翻訳」で概要はつかめると思います。